6:救い、救われ、生きていく。
その姿は獣のようだった。しかも、手負いの。
びしびしと、肌に警戒心が突き刺さる。何者の助けも借りないのだと吼えんばかりの紅の瞳は、鋭く細められ、敵意を剥き出しにしている。
見るからにガリガリの身体。その状態で、まだそこまで動けるのかと、一種の驚愕さえ覚えた。
どうしたら、伝わるだろう。ヒューナスは戸惑いながらも考える。どうしたら、自分は、貴方に害をなそうとしているのではないと伝えられるだろう。
彼女に歯を剥く子供は、孤児だ。両親を争いで喪ったか、最初から両親の存在を知らない環境下で生きてきたのだろう。彼女個人の詳しい事情を、今のヒューナスが知る術はない。今でこそ治安が向上してきているとはいえ、その手の話は哀しきかな、ありふれている。
おいで、と手を伸ばしても、払い除けられるか、もしくは噛み付かれるような、そんな気がした。ヒューナス自身は、怪我ひとつで彼女が心を開いてくれるのであればそれでも良かったのだが、おそらくそう簡単に進みはしない。傷を負うだけでは彼女との距離は縮まりそうもない。いずれ触れたいと思うが、それは今ではないのだ、と抱き締めたい衝動を抑え込む。
あなたを助けたい、とも言えない。おそらくこの獣は、散々な目に遭ってきて、また誰かを散々な目に遭わせてもきたのだろう。それが彼女の日常で、“助け合い”なんてものは、初見の者との間に生まれることはないと認識されているだろうから。だから、自分がいかに危険な状態か、それを解っていてもなお、誰かに助けを求めることはしない。
自分でなんとかできなくては死ぬ。
彼女が生きてきたのは、そういう世界だったのだろう。
そこで生き残ってきた彼女はとても強い。と同時に、とても弱く、そして哀しくもあった。
どうしたら伝えられるだろう。ヒューナスの意識はまたそこに戻る。
どうにかして、助けたかった。今、ただの独りで逝こうとしているこの子を、どうにかして救いたかった。
あなたが生きることを望む者は、ちゃんといるんだよ、と。それを伝えたかった。だから生きて欲しい。そう願った。
紅の瞳は、一向に警戒を解く様子はない。ぼろぼろの身体で、おそらく立っていることさえ辛いだろうに、それでも短刀を握り締め、こちらが少しでも彼女に近付いたら、痛む身体を無視して斬りかかってくるだろう。
陽が傾き、影の形が変化した。少女から視線を外し、新たに視界に入ったものを注視する。
彼女の周囲に、彼女と同じくらいの歳だと思しき少年少女の亡骸が転がっていた。多分に、それは彼女の仲間のものだ。いつ息を引き取ったのかは不明だが、少なくとも数日は経っているのだろう。その亡骸には蛆虫が湧いていた。
「あ……」
身が竦んだ。何か声を掛けたい。反射的にそう思った。
この少女を、救いたくて。この獣を、助けたくて。
死んだ仲間の傍から離れられない、この子を。
放っておけば、近いうちに彼らと同じになる、まだ幼い少女を。
それは、自分のエゴなのだろう。
偶然ここを通り掛かって、偶然彼女を見つけて、そして偶然――自分の死んだ娘がもし生きていたら、ちょうど同じくらいの歳だと、考えて。
だから、これは自分のエゴの塊なのだ。
もうその場面を見たくない、という自分勝手な理由。自分の娘をまた失う、そんな錯覚に囚われて。だから見捨てられなくて。彼女の獣を彷彿とさせるその瞳に魅入られて。それがこちらを恨んでいるようで。それが全てを恨んでいるようで。絶望の塊を、抱え込んでいるようで。
なのに、ただ、生きて欲しくて。
それが彼女に、更なる苦痛の世界に突き落とすかもしれないのに。
それでも――どうか。
彼女のためなどとは、口が裂けても言えない。今、自分の考えを押し通し、押し付けようとする自分は、とても汚くて、醜い。手負いとなって死に掛けても、未だ瞳に光を失わない彼女と比べると、情けなくなるほどに卑しくて、その違いに泣きたくもなってしまう。
それでも――――――どうか生きてください。
彼女の身体がカクリと崩れた。あ、と自分の口から声が漏れる。
手を伸ばすのは今ではない。今伸ばしたところで、彼女の心には届かない。それは絶対で、しっかりと、はっきりと理解していたはずだった。
理解してなお、伸ばさずにはいられなかった。
鼻を突いたのは、血の臭い。それは彼女が纏っていたものであり、また、彼女に負わされた、自分の血の臭いでもあった。
何かを、伝えたいはずだった。伝えなくてはと思ったはずだった。なのに、言葉が出てこない。どうしてだろう、目から涙が零れるのを感じた。
流れ出た血が、彼女を染め、彼女は初めて、その瞳に警戒以外のものを映す。驚きの感情を。
払い除けられると思っていた手は、そうされることはなくて。それが嬉しかった。たとえ驚愕の結果、ただ彼女が次の一手を刹那、考えていただけだとしても。
ああ、あたたかい――。
誰よりも泣きたかったはずの少女は泣かずに、ただそれとは別の誰かの嗚咽が、すぐ近くで聞こえていたことを記憶している。
それは確かに、紛れもなくエゴであった。
けれど――
「ヒューナスさん!」
明るい声が聞こえて、ヒューナスは振り返る。たたたっと軽快に走ってくる愛しい子供。しぃー、と人差し指を唇に当てると、彼女は慌てて自分の口を覆った。眉が寄せられる。自分の失態を嘆いているのだろう。
アイクがそうっと足音を忍ばせて、ヒューナスの隣に並んだ。
「……四人とも寝ちゃったのね」
「昼間外で走り回っていたから、疲れちゃったのでしょうね」
イアとメルデスはいつものことだが、エフィーとロウはちょっとばかり珍しい。特にエフィーは、ヒューナスの後ろをついて歩いているか、ぬいぐるみで遊んでいるかの二択がほとんどで、外で遊ぶことは少ない。しかし、仲間たちと共に外で遊ぶこと自体が嫌い、というわけではないのだろう。今はとても幸せそうに眠っている。
子供の可愛らしい寝顔を覗き込み、顔を見合わせてくすくすと笑う。幸せそうなアイクの表情に、ヒューナスは更に幸せになった。ああ、この子は今、ちゃんと笑えている。
それで自分のエゴが消えるわけではないけれど。
そう思うと、それ以上その顔を直視できなくなって、顔をまたイアたちへと向ける。
「ねーえ、ヒューナスさん」
幸せそうな響きを持たせたまま、アイクが彼女の名前を呼んだ。その声に、ヒューナスはまた顔を上げた。紅の瞳は、本当に嬉しそうな色を放っていた。
「わたしね、ここに来れて良かったと思うわ」
「そう思ってもらえると、とても嬉しいわ」
にこりと笑ってそう言えば、不服そうに顔を顰める。
「本当よ?」
「わかっているわ。顔に幸せって書かれているもの」
「ヒューナスさんのおかげ」
「そんなことはないわよ」
本心から、そう言った。幸せを貰ったのは、むしろ自分の方だ。彼女のおかげで、自分は立ち直れたのだから。
「ヒューナスさんのおかげ、なの」
繰り返し告げられた言葉に、そんなことはない、とまた同じ答えを返そうと口を開いたが、声を出す前に、アイクが続けた。
「だって、あのわたしに手を伸ばしてくれたのは、ヒューナスさんだけだったもの」
「……それは、ただの私のエゴなのよ」
そんなに立派なものじゃない。綺麗な光を向けられるような、そんな大したものではない。
「ヒューナスさんがそう思っていたとしても、わたしはそれが優しさなんだと思ったから。どのくらいの間わたしがあの場所にいたのかはもう思い出せないけど、人が何度も行き来したのは覚えてるの。でも立ち止まったのはヒューナスさんだけだった。他の人は、たとえエゴでもわたしに近付こうとはしなかった。だからわたし、本当に感謝してるの。――ねえ、ヒューナスさん曰くのそのエゴで救われた人は、こんなにいるのよ。みんなここで、居場所を貰った」
笑む紅の瞳は、どこまでも優しい。
「わたしも、貰った。……初めて、人から貰ったの。奪う以外の方法で」
だから、と彼女は続けた。
「ありがとう。本当に。それから、ごめんなさい。言おうと思っていて、ずっと言えなくて」
「……私こそ、本当にありがとう」
そうして抱き締める。思えば、他の子が来てからは、こうする機会がひどく減ってしまった。愛情が減ったわけでは、もちろんない。それを理解してくれていた彼女が腐ることはなかったが、それでも少し寂しくあった。彼女が、ではない。自分が、だ。子離れができていないと、自分自身に苦笑を向ける。
礼を言いたいのは、言わなくてはいけないのは、自分の方だったのに。どうやら先を越されてしまったらしい。
手負いの獣は、それ故に警戒心が強く、そして気高く、近寄るなと言わんばかりのオーラを放ち、――それでいて、とても優しいから。優しすぎるから。
あの日、助けられたのは、本当は自分の方だった。
幸せに満ちた紅の瞳が、はっきりと目の前に存在しているのを見て取り、ヒューナスは目一杯微笑んだ。
「ありがとう」
もう一度、想いを込めて、呟く。彼女の心の奥まで届くように。
それは、幸せそうに笑う彼女を――彼女たちを護っていくのだと、改めて決意した日。