5:「ねぇ待って」 言えない代わりに袖をそっと掴んでみる
ファンファンファンファン――ファンファンファンファンファン――
けたたましく鳴るのは、警報の音。みながみな飛び起きて、まるで示し合わせたかのように揃ってリビングに集まった。子供たちには予め、何かあったらリビングに集まれ、ということになっている。いつもはしない警報音を耳にして、咄嗟に言い含められた通りにしたのだろう。
唐突に夢から引き上げられたためだろうか、子供たちは眠そうに目を擦っている。ただその中で、ロウだけは目を見開き、いつになく不安な表情を浮かべていた。本人は必死にそれを隠していたので、不安そうな、というよりは、どこか強張った表情、という印象が強い。
事情を知っている者なら、それが精一杯の強がりであることがすぐにわかっただろう。何しろ、彼が家族――正確には母親はロウを産み落とすと同時に亡くなってしまっていたので、残る片親であり、唯一の肉親であった父親――を失ったをのは、この警報が知らせている災害である火事なのだから。
あの時も、そうだ。こんな音がずっと流れていた。当時はそんなことに気を留める余裕なんてなかったけれど、ずっと聞いていたからか、勝手に記憶に刻まれている。恐怖が身体に染み付いて、離れなくなってしまっている。
ぎゅう、と誰かがロウの服の裾を引っ張った。それにハッとして顔を上げる。
「……だいじょう、ぶ……?」
心配そうな顔。事情は知らないとはいっても、その顔色の悪さには気付いてしまったのだろう。元々エフィーは感受性が強い方だ。
「ぼくは大丈夫、だよ。ありがと」
にこ、と無理やり笑顔を作って見せた。それから、大人たち(といっても、内二人はまだ未成年だが)を見上げる。なにやら小難しい顔で話し合っていた。
「なんのはなし、してるのー? ……このおと、なに?」
イアが眉尻を下げて、窓の外を見ながら、不安げにメルデスの腕にしがみ付く。いつもは元気な彼女の顔は、今は曇っている。イアは火事が未経験だから、危険だということは本能的に感じ取っていても、詳しい状況まではわからないのだろう。その頭はぽんと撫でて、ヒューナスが微笑んだ。
「心配しなくても大丈夫よ。ただちょっと、……もしかしたら火がこっちまで来るかもしれないって」
「え……?」
思わず上げた声に、アイクが、大丈夫、とヒューナスの言葉をもう一度繰り返して、
「可能性があるってだけよ。出火元は遠いから。ただ、風がこっちに向くかもしれないってだけ」
この街の風は、通りを吹き抜けて時折非常に強くなる。その上、方向が急に変わることもある。それを懸念しているのだ。
「おうち、もえちゃうの…?」
今にも泣きそうな声で、エフィーが小さく零した。それが感染して、他の子供たちも一様に不安感が高まったのだろう、顔をくしゃりと歪め、中には泣き出す者までいた。
――いつかと重なる光景。
あの時泣いていたのは、自分だった。泣いて、泣いて、泣いて、ただ泣いていた、自分。
泣くことしかできなかった、自分。
「だーいじょうぶ。心配しないの。ね」
大丈夫って、本当? あの時も、にっこり笑ってお父さんは言ったよ。大丈夫だよ、って。でも帰ってこなかったんだ。帰ってこなかったんだよ。大丈夫って、何?
「ルイにいは?」
メルデスが口を開いて、みんなが一斉に彼を見た。
この孤児院で唯一の“兄”。こういった有事の際、その唯一の存在は、家を出てしまうのだ。
「俺は消火活動を手伝ってくる。ほら、元を断っちまえば、こっちまで火の手が回ってくることもねえんだし」
「……だいじょうぶ?」
「たりめーだろ。誰だと思ってんだ。大丈夫だって」
だから、良い子で待ってるんだぞ。
そう言ったお父さんに、自分は頷いた。わかった、そう返して。
――でも。
聞き分けの良いフリをして、自分はただ、あの時逃げたんだ。ぎゅ、と唇を噛み締める。普段はしっかり蓋をして、紐で縛ったその記憶の箱が、するりと緩む。あの時、怖くて、怖くて。でも、世の中にはもっと怖いことがあることを、そんなことが後に待っていることも知らずに、ただ目の前の恐怖から逃げた。
「きをつけて、ね……」
イアがおずおずと声を掛ける。
「お? お前がそんなこと言うなんて珍しいなあ、イア」
「あーっ、ひ、ひとがせっかく、しんぱいしてあげてるのにーっ。ルイルのばかー!」
ルイルとイアが、父と自分に重なっていく。
だって、帰ってこなくなるなんて、思わなかったんだ。大丈夫だよ、って、言ったから。帰ってくるよ、って、約束したから。
「ははっ、そんだけ元気なら大丈夫だな。――ヒューナスさん、アイク、こいつら頼んだ」
だから、大人しく、お隣のおばさんと一緒にいた。一緒に、待ってた。ただ、待っていた。
「ええ、貴方も気を付けてね」
「ていうか、頼まれなくてもわかってるわよ」
でも、帰ってこなかった。約束、したのに。
「じゃ、行ってくる」
「っ……」
行っちゃう。
行かないで。行っちゃやだ。だって――もし、帰ってこなかったら? 帰ってこれなく、なっちゃったら?
悲しむ。みんな悲しむ。自分だって、そう。悲しい。みんな痛みを知ってるから、余計に、悲しい。
行かないで……。
声が出ない。迷惑を掛けちゃダメだって、思ってる。困らせちゃダメだって。あの時もそう思った。引き止めたら、きっと困ったような、そんな顔をするから。――違う。それはただ逃げてるだけ。過去と同じで。逃げてるだけは、ダメ。もういやだ。
……嫌だ。待って。行かないで。
「どうした、ロウ?」
「……あ」
気付けば、ルイルの服の袖を握り締めていた。引き止めるように。我に返って、離そうとする。なのに、手は言うことを聞いてくれない。なんとかもう片方の手を使って引き離そうとしたけれど、やっぱり出来ない。
ルイルはまだ、いる。きっと、ロウが答えを返していないからだ。だって彼なら、かちこちに固まった自分の手でも、すぐに解いてしまえるだろうから。だから、答えるまで、待っていてくれているんだ。
……じゃあ、答えなければ行かないでくれるだろうか?
ふ、とその考えが頭をもたげた。だが、自分で否定する。
それもダメなのだ。この街で生きていくのなら。
ちゃんと、わかってる。
ルイルが強いってこと。誰かを護れるくらい、助けられるくらい強いってこと。自分のような子を作らないように、って思ってること。誰かを助けるために行くこと。その中には自分たちも含まれていること。ちゃんとわかってるんだ。
でもね、お父さんも、強かったよ。強かったけど、帰ってこなかったんだ。
「……ルイルはちゃんと帰ってくる、よね」
ルイルは屈んで、ロウと目線を合わせる。
「約束」
「?」
「約束する。帰ってくる。だからロウ、お前、一番しっかりしてるから、みんなを見ててやってくれよ。頼んだからな」
笑う。それはあの時の自分の父親と、いやに酷似していて、余計に不安になる。
でも。
「うん。わかった」
あの時のままじゃ、ない。自分だって、あの時からずっと立ち止まって、動かなかったわけじゃない。ちゃんと動けた。ちゃんと成長した。
あの時、自分は護られる側で、今も護られる側で。それは変わっていない。けど、護られるだけは、もう嫌。ただ待っているだけなのは嫌。そう思った。
本当は、誰かを護れるくらい、強くなりたい。
今、この場で、その力が欲しい。
けれど、それは無理だから。
わかっている。自分に何ができて、何ができないのか。
「みんなのこと、ちゃんと見てる」
いつもみたいに。ここに来てから、自分が、いつもそうしているように。
良い子にしてる。だから、
「約束、守ってね」
今度こそ。
手が袖から離れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ファンファンファンファン――ファンファンファン…………
その音が鳴り響く中で、夜が明ける。ソレが止まった時には、もう朝日は完全に顔を出していて、空は赤から青に変わってきていた。その間、誰もがほとんど喋らなかった。ただ、神経を尖らせて、時折不安げに窓から外の様子を見ている。火事の様子が知りたいのか、それともルイルの安否が知りたいのか、はたしてどちらだろう。
警報は止んだ。しかし誰も動こうとしない。……ルイルが帰ってこないからだ。
待っている時間が、永遠のようにさえ思えた。そんなはずもないのに。
ヒューナスは、リビングにいる面々の顔色を確認する。
元々寝ている時間をずっと起きていたのだ。各々が限界を迎えつつあるのだろう。イアやメルデスは時々こっくり、こっくりと船を漕いでいる。エフィーは普段から半分寝ているようなぼうっとした目をしているので、おそらくは眠いのだろうが見た目的には変化はない。ロウはただじっと、ソファに座っていた。時折部屋に視線を走らせているのは、ルイルと約束した『みんなを見ている』ことを実行していたからだ。特別不安を抱えていそうな子供がいたら、そちらに駆け寄って、隣に座ったりしていた。
アイクは未だ警戒心を解かずに、子供たちでさえ近寄り難い雰囲気を隠さず外に出している。平穏を装っているが、やはり心配なのだ。もしくは、一度警戒態勢に入ると、昔の癖でなかなかそれを解くことができないのかもしれない。その様子はヒューナスに、彼女がここに来た頃のことを想起させた。
ふと、時計を見る。みんなが心配するのも無理はなかった。警報が鳴り止んでから、もう小一時間は経っている。正直に言えば、ヒューナスだってもちろん心配だ。だがしかし、今ここで、自分がそれを表情に出してしまってはいけないということを、彼女はよく理解していた。
ルイルは、消防隊から連絡が来ないということは、つまり無事であるはずだ。そうでなくても、あの子のことだから上手くやっているだろう。いや、そうであって欲しい。そんなことを代わりに考える。
ぴく、とアイクの身体が小さく動いた。そのままドアの方へ顔を向ける。
「……ヒューナスさん」
「ええ。――みんな、ルイルが帰ってきたわよ」
「ほんと!?」
パッとイアが顔を輝かせて飛び起きる。彼女の隣にいたメルデスはそれにビックリして飛び起きた。しばらく目を瞬かせた後、嬉しそうなイアの顔につられたようにへにゃりと笑った。エフィーはやっぱり普段と変わらなかったが、その視線を入り口から続くドアから離さず、まるでルイルが入ってくるのを今か今かと待っているかのようだ。
ロウは緊張した面持ちで、立ち上がってドアに寄る。
ドアが開く。ゆっくり、でもなく、かといって素早く開け放たれたわけでもなく。ただ、いつものように。
「ただい――……なんだよ、みんな揃って」
「わっ、ルイルだー。いきてたー!」
「よかったねー」
「って、人を勝手に殺すな!」
ぎゃあぎゃあといつものように、騒ぐ。……本当に、いつもどおりだ。良かった。ロウはホッと息を吐いた。
ルイルがロウの姿を捉え、にっと笑った。
「約束、守ったぞ。お前は?」
「守ったよ、ちゃんと」
「そっか。偉かったな。――ただいま、ロウ」
笑った。それは行く時と寸分も違わぬ笑顔だ。違う箇所を挙げるとするなら、服やら顔やら髪やらが全体的に煤汚れてしまっていることぐらいか。
あの時は守られなかった約束。もしそれが守られていたなら、ルイルと同じように笑って、同じような姿で、同じような言葉がそこで交わされていたのかなと、ロウは少し思った。
……止めよう。今となってはそれはもうわからない。その未来に道は伸びていない。
ただ、ルイルが自分との約束を守って帰ってきてくれたという事実が、ここに在るだけだ。
「おかえり、ルイル」
――――それで十分だった。
【「ねぇ待って」 言えない代わりに袖をそっと掴んでみる】