4:寝顔が案外可愛いと新たに気付いた昼下がり
「ルイル~? ルイルさーん?――もうっ、どこ行っちゃったのかしら」
アイクが腰に手を当て、口を尖らせていると、たまたま通りがかったヒューナスが、笑いを含んだ声で窓の外を指差した。
「ルイルならさっき、裏庭の木のところで見たわよ」
「みたわよー」
「みたー」
それをイアが真似をして、メルデスは……おそらく、自分も見たと言いたいのだろう。
教えてくれてありがとね、とその二人の頭をぽんぽん撫でた。
ヒューナスはそんな娘たちの様子を見て、柔らかく目を細める。それから、そのあたたかな眼差しをアイクに向けた。
「でもアイク、貴方どうしてルイルを捜してるの? あの子今日、久しぶりの休みだー、とか言っていたけど」
「ちょっと頼みたいことがあって」
いつも疲れて帰ってくることを考えれば、悪いことをしている気も、しないでもない。けれど、こっちだって人手が必要なわけで。まあ、運が悪かったと思って諦めてよ、と心の中でぞんざいに許しを請う。もちろん本人には聞こえないだろうが。
「それは……少し延期になるかもしれないわね」
「え? どうして?」
優しく微笑むヒューナスの顔には、どこか揶揄うような色が見え隠れしている。行けば分かるわ、と彼女は言った。
不思議そうに首を傾げながらも、言われた通り裏庭に向かう彼女を見送って、ヒューナスは歩き出す。隣の子供たちも、一緒に歩く。
くい、とメルデスが服の裾を引っ張った。
「アイクねえ、ルイにいのとこ、いったの~?」
「ええ、そうよ」
ヒューナスは頷いた。
「でもルイル、ねてたよ?」
「ええ、そうね」
ヒューナスは頷いた。そして付け足す。
「だから、アイクの用事は延期、ってね。あの子は優しいから」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
暖かくなってきた。風ももう、だいぶ弱い。外を歩くにはちょうど良い感じだが、今は散歩をしにきたわけではない。アイクは、きょろきょろと辺りを見渡した。
裏庭の木、というとここしかないのだが、一見したところ人影は見当たらない。もしかしたらもう部屋に戻ってしまっているかもしれない。だとすると行き違いか。無駄足だったかも、と引き返そうとしたちょうどその時に、その姿が視界に入ったのは偶然だった。
木の半ば。ルイルは、彼の全体重をかけても折れない程度に太い枝の上に座っていた。なんでまたあんなところに、と思わないでもないが、まあいい。木の下から呼びかける。
「ルイル。ちょっとルイル!? おーい」
……反応がない。
仕方がない。小さく息を吐くと、アイクはその場で垂直に跳び、一番低い枝を両手で掴んだ。よっ、と掛け声を口にしながら、幹に足を掛けて身体を持ち上げる。同じ要領で枝から枝へと渡りながら、彼の座る枝のひとつ下まで登るまでに、そう時間は掛からなかった。
「ふう……。で、ルイル、貴方ね、なんだって人を無視――って、あれ」
寝てる。
そりゃあもう、気持ち良さそうに。
何故こんなにも不安定なところで、まるでベッドで眠っているかのようにすやすやと眠れるのか。アイクには理解できない。用事を済ませるには彼を起こすしかないが、まかり間違って起こした拍子に木から落下されても困る。
「むう、まさかこれを狙って……?」
そんなことはないと思うが、それでもそう思わずにはいられない。なんなのだ、このタイミングの悪さは。この前の発熱にしたってそうだし、自分は本当に神は元より、運からも見放されている気がする。――この家に来れたのは紛れもなく幸運だったが。もしかして、それで自分の運を使い果たしたのだろうか。それだったら、……仕方ないか――。
はあ、とため息を吐いてから、ヒューナスの顔と言葉を思い出す。延期、といっていたのは、このことを指していたのだろうか。ならあの場で教えてくれても良かったのに。
「どうしたものかしらね」
ルイルの寝ている枝の隣に座り、その顔を覗き込んでみる。一向に起きる気配はない。ここまで気持ち良さそうに寝ているのを見せられては、起こす気も削がれてしまう。
できることなら早めに済ませてしまいたかった用事だが、絶対に今日でなくてはいけない、という期日があるわけでもない。仕方がないから、今はこのまま休ませてあげようか。
……ああ、これでは本当に、ヒューナスの言うとおり、予定は延期しなければならない。行動を読まれていたことに、自分の思考はそんなに単純だったかと、気恥ずかしくなる。
少なくとも、ここに来るまでは誰かに行動を読まれたことなんてなかった。読まれていたら、きっと今、生きていない。読まれないように、必死だった。そうしなければ、生きて、こうして、ここにいることはできなかった。
ここにいる者はみな、何かしら、そういった過去を抱えている。話したわけではない。語ったわけでもない。でも、そうなのだと、みんなが知っている。でなければ、ここには――孤児院には来ない。
孤児――親を失った者、仲間を失った者。……アイクの場合は後者だ。親なんて、失う以前の問題だ。手に入ってもいないものを失うことはできない。自分は共に生きる仲間がみんな死んでしまって、自分だけが生き残ってしまったから、ここにいる。一人では生きられなかったから、ここにいる。
彼も――ルイルも同じ。ただ、失ったものが違う。彼は親を失ったのだと、いつかぽつりと言っていた。少しだけ羨ましいと思ったのは、秘密だ。だってその親は、今はもういないのだから。だからそんなことを口にしてはいけない。それでも親という存在を知っている彼を羨ましいと思ったことなど、絶対に秘密だ。自分のその言葉は、もしかしたら彼を傷付けることになるかもしれないから。傷付けるとまではいかなくとも、その顔を曇らせてしまうには違いないから。それは決して、アイクの本意ではない。
「あー、もう……!」
一人でいると、気が滅入る。せっかく朗らかな陽気だというのに、なんだって自分は暗い思考に向かってしまうのか。風邪が治ったばかりだからかもしれないと、そんなことも思ってみる。せめて話し相手がいれば、こんなことを考える時間だって吹き飛ぶのに。それができる人物は、今、隣ですうすうと寝ている。
「…………」
なんとなく腹が立って、その頬を抓った。
「……う」
小さな呻き声。起こしてしまったかと、慌てて手を離して、様子を窺う。どうやら起きたわけではなかったようで、すぐに規則正しい寝息に戻った。ほっと胸を撫で下ろす。
――それにしても。
改めて見ると、あどけない寝顔だ。歳相応、もしかしたら、実年齢よりも幼く見えるかもしれない。元々年の頃は少年と青年の境くらいだから、十二分に『若い』分類に入るのだが。でも、それよりも更に……そう、どこかイアやメルデスたちの可愛らしい寝顔と似ている。本人にしてみれば、不本意極まりないだろうが。
普段はむすっとしたような顔をしているので、余計にそう思えるのか。
そういえば、寝顔自体、見たのはこれが初めてかもしれない。ルイルは自分よりも早くに起きるし――そうでなくとも、勝手に部屋に入れば彼が怒ることは目に見えてわかっているのでしないし――、その上、普段なら人の気配を察知して、さっさと起きてしまうので、こんな場所で寝ていたことは今までない。あったとしても、自分は知らない。
普段からこういう穏やかな顔をしていれば、周囲との余計なイザコザもなくなるだろうに。だが、常に穏やかなルイルというのも、想像したら気色悪い。槍でも降ってくるのかと心配してしまいそうだ。そんなことを口にした瞬間、彼の表情は元のむすっとした顔に戻るだろう。もし戻らなかったら、……やはり、少し、怖い。
ああでも、子供を見ている時に、たまに見せる顔は、穏やかだ。
取り留めもない思考は、流れに流れ、しかしこんなところで寝るなんて、とまた最初のそこに戻る。
安心している、ということなのだろうか。……自分が傍に寄っても? さて、それはどうだろう。わからない。単に気付いていないだけかもしれない。なにせ自分は育ちが育ちだから、気配を消すことに関してなら、ルイルやヒューナスよりも上手だ。
「……いつまで寝てるつもりかしらね」
当分は起きないだろうという、妙な確信があった。こんなに他人が近くにいるのに爆睡しているくらいなのだから、相当に深い眠りなのだろう。この頃は特に疲れているようだったし。鼻でもつまんでやろうかしら、と悪戯心がひっそりと疼いたが、やめておいた。
――彼はそのままにしておくとして、それでは、自分はどうしよう。
少し迷って、これもこの陽気の所為だろうか、それとも気持ち良さそうに寝ているルイルの所為か、だんだんと忍び寄ってきた眠気に身を任せ、アイクは枝の上で足を伸ばして、目を閉じた。
どうしてこんなところで気持ちよく眠れるのか。今はわからないが、きっと目を覚ました頃には理解できていることだろう。
【寝顔が案外可愛いと新たに気付いた昼下がり】




