3:あなたに抱きしめられるたび、幸せで泣きそうになるよ
昔のことだ。昔といっても、きっとたくさん生きている人にとったら、ほんのちょっと前のことだ。
記憶はどこか靄がかかっていて、はっきりと見えはしない。色だってカラフルではなくて、モノクロ。あるいはセピア色に染まっている。一部の色だけがやけに鮮烈に主張しており、そのアンバランスな色合いが不自然さを強調していた。どこまでいっても、ちぐはぐ。それは当時の不安定な心境を示しているようだ。
ワントーンで構成された石畳をじいっと見ながら歩いていると、名前を呼ばれた。母の声だ。母の冷たい声。その声には実の子に対する愛情なんてものは欠片も感じられなかった。どうしようもないほど疎ましげなそれは、まるで先が鋭く尖った氷の矢のようだった。声に応えるようにそうっと声の主を見上げると、声と同様の冷めた双眸とかち合う。
それらが突き刺さると、とても冷たくて、とても痛い。とても、とても悲しい。
ぎゅ、と両手を握り締めた。
「何をしてるの。さっさと歩いて頂戴」
「は、はい。あの、ごめんなさ、い……」
返事は無かった。代わりに、歩き出す靴の音が聞こえた。今度は遅れないように、必死に足を動かす。
悲しかった。でも泣きはしなかった。
泣いても、誰も助けてはくれない。ただやっぱり疎ましげに見られるだけ。その目だって、すぐに逸れてしまう。自分に向けられる、自分のための優しい手や温かい眼差しは、何もない。
そういったものが世間には当たり前のように存在していることを知ったのは、以前に立ち寄った町で、仲良く手を繋いで歩く『親子』の姿を見てからだ。子供が楽しそうに、嬉しそうに笑いながら、何事かを身振り手振りを交えて話している。母親はそれを、笑顔で、時折頷きながら聞いている。そういう光景。一度気付いて周りを見ると、それが決して特別なことではないのだということがわかった。
親子とはそういうものなのだと知った時期が、遅すぎたのかもしれない。今更、その温かさを求めることはできなかった。だから、泣かなくなった。泣けなくなった。
ただ、心はいつも、叫んでいた気がする。その叫びをまともに聞くと、自分が壊れてしまいそうで、いつだってきっちりと蓋をしていたけれど。でも同時に、いつか壊れるだろう、とも思っていた。蓋か、自分か。どちらかが、いつか必ず壊れる。おそらくその時、自分は死ぬのだろうと、漠然と思っていた。
――――実際は、それらが壊れる前に、周りが壊れてしまったのだけれど。
その日は、突然訪れた。
このご時世、危険はつきものだ。特に、大した後ろ盾を持たず、それゆえに放浪暮らししかできない自分たちのような存在は、狙われやすい。皆殺しにしてしまえば、後腐れが無いからだ。それはみんなが知っていること。何も与えられない自分でさえも、大人たちが注意する様子を見て、学んだ。それくらいの常識。
だから安心していたのだろう、大人が。自分たちはこんなにも警戒して生活しているのだから、と。
油断していたのだろう、大人たちが。それでこれまでも大丈夫だったのだから、と。
生憎と自分には『安心』なんてものはなかったので、そんなのものは関係なかったが。
ただ、それは誰にとっても本当に突然で、一瞬で、そして、全てが壊れた。
ベキッ、という音がして、木の扉が壊れた。
ベリッ、という音がして、布の幕が破れた。
周囲から上がる悲鳴に、どしゃりと崩れ落ちる人だったもの。赤い液体が飛び散る。ぎらりと光るナイフ。振り上げられる腕。振り下ろされる腕。光って、一閃して、それで全てが終わった。
自分は、瞬間的にそれが危険だと理解して、ほんの一瞬、それが周りの大人よりも早かったから、ベッドの下に潜り込むことができた。だから、ギリギリのラインで安全を得ていた。
繰り広げられる殺戮。一瞬にして始まって、一瞬によって終わった、それら。ベッドの下から見えた光景の、動かなくなったものたちの中に、自分の名前をいつも冷たく呼ぶその人の姿があった。まだ悲鳴が聞こえる。まだ誰かが生きている。けれど、自分の名前をたとえ冷たくでも、それでも呼んでくれた、その人は、赤く染まったものになってしまった。
――生きていない、ものに。
いろいろな感情が溢れて、混ざって、混乱して、狂ってしまいそうだった。時間が止まってしまったような錯覚を覚えて、しかし周りはちゃんと動いている。
笑い声が、聞こえる。
呻き声が、聞こえる。
叫び声も、聞こえる。
それら全てが終わったのも、始まりと同様、一瞬だった。
パアンッ、という発砲音。突入してくる新たな人たちの荒い足音。捕らえられ、動きを封じられる、ナイフを持つ人たち。助かった、と思った。極度の緊張から解放されたためなのか、ふっと遠退いていく意識の中、自分に伸ばされる手が見えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――目が覚めた。
久々に、あの頃の夢を見た。その所為か、どこか頭が重い。額を湿らす汗を腕で拭ってから、壁に掛かった時計を見た。起きるには早すぎる時間帯。もう一度布団に包まってみるが、夢の内容の所為か、目が冴えて眠れない。妙な汗を掻いたために全身が湿っぽく、気持ち悪い。眠れないのは、それも原因かもしれない。
仕方なくエフィーは身体を起こすと、二段ベッドの下に寝ているイアを起こさないように、梯子を使って降りた。
外はまだ暗い。一人でいるのは怖くて、いつも持っているウサギのぬいぐるみを抱き締めて、部屋を出る。ここに来てすぐの頃は、今のように飛び起きてしまうことが多かったので、この時間にはもうヒューナスが起きていることを、エフィーは知っていた。
なるべく音を立てないようにと部屋を出たつもりだったのだが、ヒューナスは気付いてしまったらしい。リビングに行く途中で、おはようエフィー、と声を掛けられる。どうしたの、とは訊かれない。怖い夢を見て起きてしまったのだということにも、気付いているのだろう。
「おいで~」
当時と同じ優しい声でそう言ったヒューナスの、その広げられた腕に、ぬいぐるみを抱えたまま飛び込む。ヒューナスはそのままエフィーを抱き上げると、微笑んだ。
「二人でホットミルクでも飲もうか。皆には内緒でね」
こくん、と頷く。そのまま、その腕に顔を埋めた。やっぱり、温かい。ヒューナスも、ここにいる人も、皆温かい。それはたまらなく安心できる。強張っていた肩から、自然と力が抜けていった。
幸せだな、と思う。抱き締められるたびに、誰かの温かさに触れるたびに、そう思う。
それは、あの頃全く知らなかった感情だ。
だからきっと、それを知れて、知ることができて、自分は本当に幸せなのだと、エフィーは、微かに微笑んだ。
初めて会ったあの日のように、泣きそうになりながら、ただその温かさに身を委ねた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
気付いたら、少女は知らない部屋にいた。気付いたら、知っている人が一人もいない部屋にいた。自分の身体に掛けられていた毛布に、顔を埋める。
知っている人がいない。それが意味するところを知っている。それなら本来、悲しむべきだ。あんなことがあった後なのだから、尚更に。
確かに悲しかった。でも、それ以上に、解放されたと思ってしまった。助かった、そう思って――それはいったい、何からだろうか。何から、自分は助かった? 何から助かったと、思ったの?
震える身体。
怖い。周りが怖い。冷たい言葉が怖い。その言葉を自分に言うあの人が怖い。あの人を壊した人たちが怖い。
それから、あの人たちを怖いと思いながらも、全てが壊れてしまったことに、自分がまだ壊れていないことに心底から安心した、そんな自分が、怖い。
そんなことを考える自分は、きっとひどい人間だ。
こんな状況なのに涙が出ない自分は、とてもひどい人間だ。
――――だから、だろうか?
「あなたね」
やさしい、こえ。
それが自分に向けられたものだと理解するのに、だいぶ時間が掛かった。
怯えながらそっと顔を上げると、その声と同じくらい優しい表情で自分を見つめている女の人が、ベッドの傍に立っていた。いつも少女の名前を呼ぶあの人と同じくらいか、もう少しだけ上の歳頃に見える。
「こんにちは、身体は大丈夫? 幸い怪我は無いと聞いたけれど」
問われた言葉に、こくこくと頷く。
「そう、よかった。お名前は?」
「え、えふぃ」
いつもよりも、舌足らずな発音になった。怒られるかもしれない。ぎゅう、と毛布を握り締める。しかしその予想に反して、彼女の視線がきつくなることはなかった。
「エフィ……エフィーね。私はヒューナスというの。これから、あなたの新しい家族になります」
「………か、ぞく?」
聞きなれない言葉。他人の家族だったら、見てきた。でも『あなたの家族』という言葉は、初めて聞いた気がした。
そう、家族。女の人は、そう言って微笑んだ。
「ごめんね、突然こんなことを言われても戸惑うだけよね。あんなことがあった直後だもの。だから、すぐにそう思えなくてもいいの。……ゆっくり時を重ねて、いつかそう思ってもらえたら、嬉しいわ」
「うれしい……の?」
信じられない。くしゃりと少女は顔を歪める。いつも疎まれていたから。自分がいて嬉しいなんて、嘘でも言ってもらったことはなかった。だから、信じられない。
だけど女の人は、にっこりと笑った。よく見ると、それはどこか哀しげだったけれど。
――後になって思い返せば、それは幼い少女の境遇を憂いていたのだろう。もしかしたら、あの人たちが襲撃される前までの少女のことも、誰かから聞いていたのかもしれない。どちらにせよ、彼女の家族が増えるということはつまり、哀しい想いをしている誰かがいるということだ。その想いを知って、寄り添って、背負って、――そして、彼女は笑う。
「嬉しいわよ~。こんな可愛い娘と過ごせるのだもの」
ぎゅう、と強く抱き締められた。それはとても温かくて。胸の奥にぽっと光が灯ったようだった。町で手を繋いで歩いていたあの『親子』の周りに溢れていた温かさと、重なる。
それが他人のものではなくて、自分に与えられたものだと実感した時、目の端に、じわりと熱い水玉が滲んだ。決して頰へと流れなかったのは、自分がもう泣くことを忘れてしまったからなのだろうか。
家族を喪った後に、初めて目に浮かんだ涙は、家族を喪った悲しみによるものではなかった。つくづく自分はひどい人間なのだと、そんなことも再確認するけれど、でも、違うものは違う。
泣きたくなったのは、その所為ではなくて。
それがひどいことなのだと、わかっていても。
――嬉しくて。
少女はその時に初めて知ったのだ。
全身をゆっくりと包む温もりを。
それを与えてくれる存在を。その腕を。
幸せが、温かいものだということを。
自分は今、幸せなのだと感じる瞬間を。
幸せという感情を、噛みしめる。
泣きそうに、なりながら。
【あなたに抱きしめられるたび、幸せで泣きそうになるよ】