2:おいしいと笑ってくれるから、次も頑張ろうと思うのです
じいいー、と二つの視線と四つの目が、片時も離れることなく自分の手元に集まっている。正直、とてもやりにくい。
ルイルはため息を吐くと、下へ、正確には右斜め下と、それから左斜め下へと、順に視線を向けた。
ルイルの両脇をがっちりと固めている二人は、どちらも彼の腰くらいの身長だ。その身長で精一杯背伸びをして、ルイルの一挙手一投足……この場合、見られているのは手だけだが……ともかく、ルイルの動作をひとつたりとも見逃さまいと、いつになく真剣な顔をしている。
否。鋭い目つきをしているのは、その内の一人である少女・イアだけか。
もう片方の、いつも彼女と行動を共にしている――常に彼女に引っ張られていると言うべきかもしれない――少年・メルデスは、普段通りの、まるで寝起きを思わせるかのようなぼうっとした顔のままだ。おおかたここへも、イアに腕を引かれるがままに来たのだろう。彼に関しては、実害は無い。妙なところに手を伸ばして、棚の物をぶちまける心配も無いし、走り回って転ぶ心配も無い……はずだ。それでも完全に目を離すことはできないので、できることならリビングで大人しく待っていて欲しい、というのが本音だが。
問題があるのは、イアの方だ。というか、この娘が戻れば、メルデスも戻るのだが……どうやらそれは叶えられそうにない。
「……あー、イア? どうかした、のか?」
仕方ないとばかりに話し掛ければ、しかしイアはルイルの顔には一切の視線を寄越さずに、ただただ一心にルイルの手元を見つめている。珍しい。本当に珍しい。暴れ出さないなんて。それゆえに不安だ。
「ねーねー、ルイにい」
ぼんやりとした表情とよく合った、おっとりとしたメルデスの言葉に、ん? と首を傾いで、続きを促す。
「どうして今日は、ルイにいがごはん作ってるのー? アイクねえとヒューナスさんは~?」
「ああ……アイクは熱でぶっ倒れてる。ヒューナスさんは、隣町まで買い物。この町じゃ揃わない物もあるからな」
本当に、タイミングが悪い。運が悪いとしか良いようがない。それが、養い親であるヒューナスがいない時に倒れたアイクか、それともアイクが倒れた時にたまたま家を空ける用事があったヒューナスか、果たしてどちらのことを指すのかは定かではないが。
――あるいは、ヒューナスがいない時に、アイクも倒れてしまって、てんてこまい状態のルイルが、一番運に見放されているのかもしれない。
仕事場に着いた直後、息を切らせたイアが飛び込んできた時には肝が冷えた。アイクの様子がおかしい、と言われたその瞬間に脳裏を過ぎったのは、最悪の事態だ。それに比べれば、今のこの状況は雲泥の差ではあるが、しかし……。
事情を説明して抜けてきたが、その分だけ明日以降、仕事を詰めなければならない。完全報酬制なので、抜ければ抜けた分だけ収入は減るし、それはつまりこの孤児院の立ち行き、ひいては自分たちの生活に直結する。それに、仕事を抜けた分だけ客からの信頼は下がる。下手をすればその間に同僚たちに定期の仕事を乗っ取られる可能性だってある。みんなで仲良く協力していきましょう、が通用するほど、自分たちも、自分たち以外も、日々の暮らしは楽ではない。他人に優しくできるのは心に余裕があってこそだ。そしてその心の余裕には、少なくとも必要最低限の金がいる。家族に優しくはできても、他人に優しくできる日はまだ遠い。
とはいえ、病人と小さい子供たちだけを家に置いておくわけにはいかない。これで仕事をしに出たら、それこそ本末転倒だ。守りたいものをはき違えてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
――何より、目下問題が発生しているのは、明日からの仕事の件ではない。
ルイルは人知れず肩を竦めた。
たった一日、されど一日。普段は使わない脳の部位を限界値以上に使っている気がする。開始早々に音をあげそうだった。なにしろ、子供の行動力を甘く見ることなかれ。目を離すと姿を消していたり、瞬間移動していたりする。その魔法を使うのが一人ではないこの状況。そう考えると、一番わんぱくなイアが視界に収まる位置にいるのは、実は幸運だと喜ぶべきかもしれない。
しかし現状、最も厄介なのは、子供たちではなくアイクだ。
帰宅したルイルは真っ先に、赤い顔をして彷徨く彼女を捕まえた。熱を測ってみれば、案の定かなりの高熱だった。可能なら医者に診せたいところだが、子供たちだけを家に残すのは少々不安が残るし、何より本人が通院を拒否する――無論、これ以上ひどくなるようなら問答無用で連れていくところだが、強制するには微妙なラインだった――。
ならばせめて、とベッドで休ませようとすれば、子供の世話があるからと起き上がろうとするのだ。もしかすると、熱で朦朧として正常な判断ができていないのかもしれない。彼女をベッドへ押し込みながら、子供に移したらまずいだろう、だの、なんだのと理由を並べ立てて、なんとか大人しく寝ていることを承諾させたのは、つい先程のできごとだ。
……大人しくしていると良いのだが。寝息が聞こえてきたことを確認してから部屋を後にしたので、おそらく抜け出してはいないはず。たぶん。
頼むから、熱が下がるまでしっかりと休んでいて欲しい。
さて、そのアイクの次に厄介なのは、普段は煩いくらいにお喋りなのに、今日は何故か一言も喋らないイアだ。
「ほんと、どうしたんだよ……」
途方に暮れて呟けば、イアがようやくルイルの手元から視線を外し、ルイルをキッと睨みつけた。
「だって、ルイル、ぜったい、なんかしっぱいするもん! おさとうとおしお、まちがえたりするもん! ぜったい! ぜ~ったい!」
「なっ……しねえよ!」
つうか絶対って部分を強調すんな! と子供相手に大人げなく言い返すが、イアがそれで大人しく引き下がるはずもなかった。
「うそ! あたし、ルイルがりょうりしてるのなんて、みたことないもん!」
「ほっとけ!」
確かにそれは事実だ。自分の仕事は力仕事が大半だから、これまで孤児院のキッチンに立つことはほとんど無かった。だが、別にできないわけじゃない。親が死んでからここに来るまでの間は、身の回りのことは一通り全て自分でやっていたのだから。……とはいえ、いつも料理をしている二人ほどレパートリーがあるわけじゃないし、上手でもない。必要に迫られての付け焼き刃であることに違いはないわけだが。
イアが、両手を振り回して叫んだ。
「まっくろコゲなごはんなんて、いやー!」
「誰がんなもん作るか!」
さすがに、そこまでは。して堪るか。
これはいよいよ失敗できない。あーだこーだと、先程の静けさが嘘のように騒ぐイアに言い返しながら、ルイルはフライパンの中身をかき混ぜた。
「……ほっとけ……ほっとけー、き?」
メルデスは、自分が会話に取り残されたことは気にも留めず――そのことに気付いているかも怪しいところだが――、ぎゃーぎゃーと大声で騒ぐ二人の顔を交互に眺めながら、こてんと首を傾げた。すると、騒ぎに気付いてキッチンの様子を見に来たロウが、彼の歳にしては大人びた態度で、ぽんとメルデスの肩を叩いた。
「違うよ、メルデス。ホットケーキはたぶん、ヒューナスさんが帰ってくるか、アイクねえがふっかつするかしないと食べられないから、がまんしよう」
ロウの言葉に、そっかあ、といつもの調子で頷いたメルデスを、ロウはそのままリビングに連行していった。このままだと何かの拍子に怪我をするかもしれない、と子供ながらに冷静な判断をしたからだった。メルデスがここを離れたら、イアも叫び疲れた頃に、彼を捜しに戻ってくるだろう、と考えたからでもあった。
その読みどおり、五分後、イアはむすっとした表情をしながらも、リビングに戻ってきたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
良い匂いが漂ってくる。お腹が空いていたのだろう。いつもより遅くなった昼食が並べられていく様子を、子供たちが目を輝かせながら見ている。手を伸ばそうとするものはいない。そこらへんはきちんと躾けられているから、苦労はない。
それだけが救いだとルイルは心の中でホッとしながら、全員いることを確認すると、手を合わせた。それを見て、同じように子供たちも手を合わせる。
「いただきます」
後に、いただきます! という子供たちの元気一杯の大合唱が起こった。
「おいしいね」
「ね~」
「おっかしいなあ。ぜったいたまごのからとか、はいってるとおもったのに~……」
「……お前な、イア、実は楽しんでるだろ」
「……ルイルのおにいちゃん、ごはんつくれたんだね……」
「こういうの、いがいせーがある、っていうんだよ! このまえアイクねえがいってたもん」
「テメエら、俺をなんだと思ってやがる」
顔を引き攣らせたルイルは子供たちをじとりが睨むが、しかしその表情にはもう慣れているのだろう、子供たちは呑気に笑っている。
子供は時に残酷だ、という言葉があるが、まさしくそうだ。言いたいことをなんの容赦もなく、悪意もなく、ずばずばと言ってのける。……しかし、自分に対してだけそれが極端なのは気のせいだろうか。アイクやヒューナスには、もう少し『いいこ』でいるような気がするのだが。
「うん、でもおいしい」
「おいしいよー」
「……そりゃよかったな」
子供は純粋だ。でもって、そこから少し成長したルイルは、感情を素直に表に出すことが子供より苦手だ。無意識に前髪を掻き上げてから、それが、以前にアイクから指摘された『何かあった時の癖』であることを思い出し、ぱっと手を離す。
「あ、ルイルてれてるー」
「うっせ」
自分と十は離れてる子供にまで見抜かれているようでは世話がない。はあ、とルイルはため息を吐くと、立ち上がった。
「どこいくのー?」
「にげるのー?」
「違えよ。アイクの様子見てくんの。お前らは来るなよ? 移りでもしたら、どやされんのは俺なんだから」
一番着いてきそうな雰囲気を出していたイアの頭を、制止するようにぽんと叩く。
べつにルイルがおこられたって、あたしにはかんけいないもん。という捻くれた答えが返って来たので、お前が風邪引いたらアイクは悲しむだろうなあ、と別の方向から言葉を掛けると、すぐに黙った。――最初からこっちを言えば良かった。そうしたら、精神的なダメージも少しは受けずに済んだかもしれない。
さて、そろそろ行くか。
そう思って、一歩踏み出して、
「うおっ……と」
危うく転びそうになった。
腰のあたりに軽いダメージ。その正体が誰かのタックルだというのは、腰に回った小さな手でわかった。誰だと思って振り向けば、普段は部屋の隅っこでぬいぐるみを抱え込んでいることの多いエフィーが、その大事であるはずのぬいぐるみを放り出して、ルイルにしがみついていた。
「どうした、エフィー?」
いつもは伏せがちな瞳が、じ、とルイルを見ていた。
「……またつくってくれる……?」
「ん?……ああ」
何のことだと首を傾げ、それが昼食のことだと思い当たる。
「あー、なんだ。ま、今日の夜は作る、けどな。アイクは絶対安静だし。ヒューナスさんは帰りが少し遅くなるだろうし」
「きょう、だけ?」
「いや、……こんなことがあれば、別だけど」
できれば無いことを願う。別に料理を作ることがそこまで嫌なわけではない。そうではなくて。
(……近しい誰かが病で倒れるのは、もう御免だ)
衝動的にせり上がってくる感情を飲み込もうとして、きつく目を閉じる。自分は、過去にそれで家族を失った。だからか、余計に敏感になっているのだろう。そんなどうしようもない自覚がある。それをコントロールする術を、未だに手に入れていない自覚も、ある。
ぐわり、と頭が四方へ揺さぶられる。それを、細く、小さな声が引き止めた。
「……あのね、きっと、ね」
ぽつ、とエフィーが呟く。
「アイクのおねえちゃんと、ヒューナスさんも、ルイルのおにいちゃんのごはん、たべたい、から。みんな、いっしょに、たべたい、の」
一生懸命紡がれる言葉が、コントロール不能な感情を薄めていく。
「だから、……だめ?」
「……まあ。今度また、暇があれば、な」
可能な限り小さく、ぽつりと呟いた言葉は、彼らの耳にきちんと届いたらしい。わっ、とそこらかしこで歓声に似た声が上がる。確実に他の二人の方が腕が良いというのに、物好きなもんだ。無意識に摘まんでいた前髪からゆっくりと手を離しながら、ルイルは静かに息を吐いた。
……アイクが回復したら、恥を忍んで頼んでみようか。彼らの好きなものの作り方を教えてほしい、と。
彼女なら、人を散々からかった後に、笑いながら教えてくれるだろう。
【おいしいと笑ってくれるから、次も頑張ろうと思うのです】