1:いつだって翻弄されて敵わないのはこちら側
「えっと……あとは……」
「おま……っ、まだ買うのか!?」
勘弁してくれよ、と少年――もう青年といっても差支えないかもしれない――の口から零れた声は、ほとんど懇願に近い響きを持っていた。
彼は今、右腕に三つ、左には二つばかり、紙袋を引っ掛けている。持ち手である紐が今にも千切れそうなくらい、ぱんぱんだ。それが何もせずとも、ぎりぎりと腕に食い込んでくる。その上なお、彼の視界を覆いつくさんとするほどの、これまた大きな紙袋を抱えていた。
これ以上は無理だ。
さすがに無理だ。腕が千切れる。
あと、物理的に前が見えない。
その彼の前を小さな手荷物ひとつで歩いていた少女は、購入予定の品が書き留められている手元の紙から目を離し、ゆったりとした動作で振り返った。彼女は、連れの姿をしげしげと見つめると、少しばかり考え込んだ表情をし、直後、わざとらしくにっこりと笑った。
「あらルイル、貴方ったらそのくらいで音を上げるの?」
「そのくらい、だあ!? おい、ちょっと待て、アイク、お前な、これのどこをどう見たら、そのくらい、なんて言葉が吐けんだよ!」
叫んだ拍子に、抱え込んでいた紙袋の一番上に乗せてあった林檎が、一つ転がり落ちる。それをすかさず空中でキャッチすると、アイクは、ルイルを睨みつけた。
「ちょっと、危ないじゃないの」
「この状況下でまだ言うかお前は……!」
怒りか、あるいは荷物の重みか。肩と腕が震える。アイクは、仕方ないわねえ、と頬に手を当て――
「それじゃ、ちょっと休みましょうか」
ベンチを指差した。
ルイルは憂いを帯びた顔で、はあ、とため息を吐いた。あくまでも休憩するだけで、どうあっても店を回ることを諦める気はないらしい。
しかし、重い荷物に体力を奪われ、正直なところ突っ立っているだけで辛いのは事実だ。というより、重いのはまだ耐えられるとしても、バランスが取り難いことこの上ない。これで意地を張って荷物をばら撒きでもしたら、少女の怒りを買うのは必至だ。それは避けたい。怒ると面倒なのだ、この女は。
ひとまずはアイクの提案に乗り、荷物を降ろすと、ふう、とルイルは安堵のため息を吐いた。荷物を落とさなかったことに対する安堵と、少女の怒りを買わずに済んだことに対する安堵。もしかしたら、それ以外にも混じっているかもしれないが、今はそんなことを考えるほどの余裕はない。
「今日のところはもう帰ろうとかいう、そういう方向には梃子でも持ってかないつもりか」
落ち着いたところで、アイクに抗議してみる。
「ええ。当然よ。今日中にって頼まれたんだから」
「へえ? 少なくとも絵本やらは今日中じゃなくても良い気がするんだけどな」
もはや何かの山としか思えない荷物のその端に、明らかに小さい子供向けと思しき本が混じっていることを指摘する。すると、アイクは平然とした様子で、さらりと言い切った。
「約束したのよ、エフィーに。今日買ってきてあげるわね、って」
「ああ、エフィーね。そりゃまあ、エフィーかロウぐらいだろうからな、大人しく絵本読んでんのは。イアやらメルデスやらは外で大暴れしてるし。あ、メルデスは単に巻き込まれてるだけか。――って、そういう話をしてんじゃねえよ!」
「今のは貴方が勝手に喋り始めたんだけどね?」
「ぐ……っ」
言葉に詰まったルイルの姿に、アイクがくすくすと笑い出す。いつもの澄ました顔とは違う、年相応の無邪気な笑みだ。その笑顔を見ていると、ルイルは言い知れぬ感覚に襲われる。今だってそうだ。先程まで確かに苛立っていたはずなのに、どうでもよくなってくる。自分の単純さを誤魔化すように前髪を片手で掻き上げれば、アイクの笑いがますます深くなった。
「……なんだよ」
「や、その癖、昔からそうじゃない? 何かあるとすぐ前髪触るの」
変わらないわねえ、としみじみと言われれば、なんとなく腹立たしくなって、――無意識に前髪を触ろうとした手を慌てて抑える。
「……っ、はー、可笑しかった」
「そーですか。そりゃあ良かったですねえ」
目尻に涙が溜まるほど笑ったアイクは、最後にもう一度、今度はルイルのことを笑うのではなく、ただ自然に、どこまでも自然に優しい微笑を浮かべた。あまりに唐突なそれに、ルイルは思わず呆気に取られ――見惚れて、という言葉は断じて使いたくなかった――、目を大きくさせた。
アイクが立ち上がる。
「それじゃあ、わたしは残りの物を買ってくるから、ルイルはこの荷物を持って先に戻っててくれる?」
語尾を上げてまるで問い掛けのように言ったが、しかし彼女の中でそれは既に決定事項だったらしい。返事を待たずにさっさと歩き始めた彼女の腕を咄嗟に掴んで、慌てて呼び止める。
「ちょっ――と、待て、お前一人で行く気か?」
「何、それも理解出来なかったの? さっきの言葉がそれ以外のことを指しているように聞こえたのなら、わたしは貴方の頭を疑うわよ?」
呆れた、というよりは、茶化すような雰囲気をまとった彼女の言葉は、ひとまず無視する。いろいろと苦情を入れたい部分はあるが、全て後回しだ。
――そんなことよりも。
朱が強まり始めた空を見る。もう夕暮れ時だ。このまま彼女を行かせれば、帰る頃にはおそらく太陽は完全に沈み、辺りは真っ暗になっていることだろう。
最下位な地区に比べれば、この辺りは治安が良い。しかし、決して安全だと胸を張って言える場所ではないのだ。以前のように、関わると厄介な連中が真昼間から堂々と出歩くことや、強姦や人身売買目的の人攫いなどが横行するようなことはなくなったとはいえ、危険なことに変わりはない。夜なら尚更だ。まして女の一人歩きなんて。
「行くなら俺も行くからな。危険だってことぐらい、理解してんだろ?」
「あら、貴方がいなくたって、わたしが一人で対処できるってことも、ちゃんと理解してるはずよね」
コートをぺらりと捲り、内側に収まっている投擲用ナイフと彼女愛用の短刀を見せる。口先だけのものではない。腕が確かだということは、ルイルも良く知っている。だが、それとこれとは話が別だ。
「それに、重い荷物で動けない人間を連れて行く方が、危険度が高くなるの」
窘めるようにアイクが言うが、それでもルイルは掴んだ腕を離さなかった。さすがの彼女も困ったように、小首を傾げる。それから何かに思い当たったように、ぽんと手を合わせた。
「もしかして、本気で心配してくれてるのかしら?」
一拍の後、ルイルの顔が火を噴いたように赤くなった。
「ばっ、違えよ! ただお前を一人で行かせて帰ったらヒューナスさんに怒られるからってだけで、別に心配とか……!」
赤く染まった顔を隠そうとした拍子に、思わず手が離れた。しまった、と思ったが、アイクはそのまま歩き出すことはなく、ただおもしろいものを見つけたと言わんばかりに口角を上げて、ルイルの顔を覗き込んだ。
「へえー。そっか、そっか。心配してくれてるの、わたしのこと。へえ~」
「だから――」
「そういうことなら仕方ないわねえ」
「は?」
ルイルが反論を止め、アイクを見やった。呆けている彼をよそに、彼女は紙袋を三つ掴んで、持ち上げる。少し重たそうだが、持てないほどではないようだ。
「何してるのよ。早く行かなきゃ、帰るの遅くなっちゃう」
「え、いや……」
突然軟化した態度には、いつもの揶揄うような意味合いが含まれているようには見えない。その違いに戸惑っていると、彼女はルイルを急かすように彼の腕を叩いて歩き出した。
「ヒューナスさんに怒られたくないんでしょ~?」
「そ、うだよ!」
だから別にお前が心配だからとかじゃないんだからな!
と、それを繰り返してしまうと余計に意識している証拠を出すようで、口にできなかった。しかし、よくよく考えると、その代わりに用意した理由は、彼女が心配だという理由よりもだいぶ格好悪い。少しばかり後悔する。
むっつりと口を結んだルイルに向かって、彼女は振り返り、笑った。屈託なく。楽しげに。
「ほら、早く、急いで!」
格好悪いけど――でもまあ、今はそれで良いかもしれない。……いや、やっぱり良くない。むしろ悪い。うん。悪い。なんだよ、怒られたくないって。ガキ丸出しかよ。
「はーやーく!」
こちらのもやもやなど一向に気にしていない、弾むような声に、少しは気にしろよな、と内心で悪態をつく。完全なる八つ当たりだ。だが、これ以上物理的に距離を離されると追い付くのが大変なので、行き場のない羞恥心はいったん放置することにした。改善案はまた今度考えることにする。……考える機会があれば、だが。
よし、と気合いを入れると、ルイルは残り二つの紙袋を片腕に掛け、もう片方の手で一際大きい紙袋を抱えて、その後ろ姿を追った。
全くもって彼女には振り回されっぱなしだ、と思いながら。
【いつだって翻弄されて敵わないのはこちら側】
この話を自サイトに掲載してから早十年。
時が流れるの、早過ぎる。こわい。確実に十年後も同じこと言ってる。