3.
「そろそろ聞きたくないか?」
日が暮れ森が完全に暗闇の中に沈んだ頃、真津蛾晴男が言った。
「なぜ僕が、こんな薄汚れた格好で君の前に突然現れたか、を」
「はぁ……」私は唸るような声を返した。
もう大分酔いが回っていた。
確かによくよく考えてみれば真津蛾晴男の突然の来訪には奇妙な点があった。
しかし既に酔っ払っていた私は、そんな事もうどうでも良いよ、と思った。
「はぁ」と言ったきり私が黙っていると、それを『イエス』という意味に捉えたのか、真津蛾は急に真顔になって「長い話になるよ」と言った。
「ええ? 長くなるんですかぁ……三行にまとめて下さいよぉ」と私が入れた茶々を無視して、真津蛾が続けた。
「なにしろ不思議で突飛な話だからね……最初から順を追って話さないと信じてくれないだろう……いや、それでも信じてもらえるか……途中で色々疑問も生じるだろうが、とにかく口を挟まずに最後まで聞いてくれ給え」
* * *
「何から話すべきか……」真津蛾が言った。酔っているにしては、やけに落ち着いた静かな声だった。
「やはり、彼のことから話すのが良いだろうな。
名は詞雅見慈三郎。
十九世紀……日本の暦で言えば明治の時代に、旧東京帝国大学に籍を置いていた学者だ。
江戸時代から続く儒学者の家に生まれ、五歳で漢籍を読みこなし十歳でイギリス人と英語で議論したという神童だったらしい。
その天才っぷりが文部省のお役人たちの目にとまり、彼は政府から特別な措置を講じられて二段、三段、四段、五段……と飛び級に飛び級を重ね、若干二十四歳にして医学・理学・工学・薬学の四つの博士号を授与されたというんだから大したものさ。
当時の日本で考えうる最高の教育を受け、最高の地位と名誉を手にし、天才の名を欲しいままにしていた詞雅見博士に人生最大の転機が訪れたのは、二十代後半、英国ロンドンに留学していた時だった。
十九世紀のロンドンといえば、世界中から富と欲の集まる大英帝国の心臓だ。
最先端の科学技術と爛熟し退廃しきった西洋文化がどろどろに溶けて融合するるつぼのような場所さ。
そこで詞雅見慈三郎は心霊学に出会ってしまった。
ひとことで言えば、心霊学とは、死後の魂の実在や、千里眼(透視能力)、あるいはポルターガイスト現象などを科学的に解明しようという学問の事だな。
国から費用をもらって留学しているというのに、彼は本来の学問そっちのけで心霊学の研究に没頭し始めた。
現地の古本屋で怪しげな書物を買い漁っては読み、買い漁っては読みを繰り返す日々が続き……ついに日本政府によって強制的に帰国させられるというオチがついてしまった。
帰国後、博士は失意のあまり精神錯乱状態に陥ったという話もあるが、確かなことは分からない。
精神錯乱は話半分としても、最先端の地ロンドンから無理やり故国へ帰されたストレスで、一時期、精神が不安定な状態になったのは間違いないらしい。
幸いなことに、やがて精神は落ち着きをとり戻し、彼はこの日本の地で新たな情熱の対象を見つけることができた。
のちに『民俗学』と呼ばれるようになる分野だ。
ロンドンでの『心霊研究』を強制的に終了させられ失意のまま帰国した博士は、この祖国日本で再び学問に打ち込むようになった。
精力的に全国各地をまわり、古代から連綿と語り継がれる民話伝承の類を現地の古老から聞き、書き、集めた。
四つの博士号を持ち、ロンドンで心霊学に傾倒した彼が、各地の民話をただ漫然と集めていた筈がない。
全国を旅するあいだに、彼の頭の中では医学、理学、工学、薬学、そしてロンドンで出会った心霊学、帰国して没頭した民俗学の知識が渾然一体となってグツグツと煮詰まり、徐々にある特異な『理論体系』が醸成されていった」
* * *
「理論体系、ですか?」私は思わず聞き返した。
真津蛾は、ワイングラスを揺らして中で波打つ赤い液体を眺めながら、ゆっくりと頷いた。
長く異様な物語が続く。
「異端の理論体系、通称『詞雅見理論』だ。
聞いたことが無いって?
そりゃ、そうさ。
あまりに突飛で、あまりに異様な考えだったからね。
学会は彼を狂人扱いして追放し、論文は黙殺され、闇に葬られた。
博士は危うく脳病院に幽閉されそうになったらしいが、どうにか逃げ出して地下に潜り、自身の理論を完成させるべく研究に没頭した。
そんな彼にも何人かの『賛同者』や『支援者』が居たらしい。支援者の中には当時の政界・経済界の大物も居たというんだから、世の中わからない。
まあでも、支援した連中にしたって、何の見返りも期待せずに彼を助けたわけじゃないだろうね。
……例えば……
普通の人間には見えない何か霊的なものを感知する装置なり能力があったとしよう。
そして、その装置なり能力を通して大会社の社長を観察する。
何が見える?
どんな名医だろうと知り得ない、彼の『魂の健康状態』さ。
現在の社長は心身ともに健康そのもの、精力的に会社を経営し、利益も出している。少なくとも一般の人たちには、そう見える……ところが霊的な見地からすると、彼の『魂』は今にも死にそうなほど衰えていると分かる。
これは霊的能力を有するものだけが知りうる情報だ。その情報があれば、他の投資家たちを出しぬいて株を高値で売り抜き、大儲け出来る。
政治家だって同じだ。
本人しか知り得ない政敵の秘密を『霊視』できれば、権力闘争も有利に運ぶってものさ。
……と、まあ、こんな旨い話を『支援者』たちが当てにしていたとしても僕は驚かないね。
そんなこんなで、地下で研究を続ける博士の元には、アンダーグラウンドの金と人脈が徐々に集まり始めた。
博士の死後も資金は戦前・戦中・戦後・現在へと受け継がれ成長を続け……それは、いつしか『詞雅見財団』と呼ばれるようになった。
もちろん正式な財団法人の訳がない。
あくまでアンダーグラウンドな金と組織につけられた俗称だ」
* * *
そこで私は再び彼の話を遮り尋ねてしまった。
「つまり、真津蛾さん……実は、あんた自身がその『財団』とやらの関係者だとでも言いたいのか?」
「いや。逆だ。全く、逆だ」真津蛾は首を横に振った。「彼ら詞雅見財団は、私の……我々の……我が眷属の……敵なんだ」
「敵?」
「少し先走ってしまったようだ。話を巻き戻して、いよいよこの物語の核心部分に入ろう……詞雅見理論とは何か? 彼の理論体系は精密にして膨大だ。しょせんは凡人である僕に説明できよう筈もない。これから話すのは、酷くざっくりとした僕なりの解釈だと思ってくれ給え。
そもそも〈霊魂〉とは何か……それが天才詞雅見博士が一生をかけて問い続けたテーマだ。
彼は『念能エナルジー』というものを仮定した。
『エナルジー』というのは戦前の言い方で、現代風に言えば『エネルギー』の意味だね。
『念能エナルジー』とは、つまり『意思の力であると同時に物理的エネルギーでもある何か』という意味だ。
人間に……いや生きとし生けるもの全てに宿る意識そのものと言い換えても良い。
不定形で、重さも無く、普通の計器類では測定できない。
通常は人の眼に見えず耳にも聞こえない無色透明の存在だが、エナルジーそれ自身の『意思』によって、人々の眼前に姿を現し、音を鳴らし、空間に物理作用を与え、生物を傷つけ、発狂させ、死に至らしめることも出来る。
個々の生命に最初に念能エナルジーが発生するのは……われわれ人間の場合、母親の胎内においてだ。
受精から一定期間を経て母親の腹の中で胎児がある発達段階に入ると、生命それ自体の不思議な作用によって念能エナルジーが発生する。これが『精神』あるいは『霊魂』と呼ばれるものの正体だ。
現代医学においては、人間の精神とは脳内の神経細胞を行き交う無数の電子とイオン物質の相互作用と説明されるが……詞雅見博士の解釈は違う。
博士によると、人間の脳髄は只の依代……単なる霊的受信装置……魂そのものである念能エナルジーと肉体とを連結する中継器に過ぎないらしい。
胎児の中に発生したエナルジーは肉体の成長に比例するように成長していき、多くの場合、肉体の死とともに消滅する。
肉体に優劣があり、知能に高低があるように、それぞれの生物種族間にはエナルジーの強弱があり、また人間という一つの種族の中にも個体差がある。
大多数の人間のエナルジーは比較的弱く、肉体の死と同時にエナルジーも霧散消滅してしまう。
しかし、何万人に一人、あるいは何十万人に一人の確率で、生まれつき強力な念能エナルジーを宿して生まれる者がいる。
俗に『霊能力者』と呼ばれる人たちだ。
彼らには、他人の念能エナルジーを視覚情報として認識したり(霊視)、自身のエナルジーを周囲の空間に作用させ、物体を動かしたり空中に浮かせたりする能力(念動力)がある。
また、強い念能エナルジーは肉体の死後も消滅せず、周囲に様々な現象を引き起こす……そう……それが『幽霊』の正体さ。
以上が『詞雅見理論』の概要だ。
死後の霊、ポルターガイスト、念写、心霊写真など……現在知られている霊現象のほとんどは、この『詞雅見理論』で説明がつく」
* * *
「そんな……」私は首を振った。「そりゃ、気の触れた学者の妄想でしょう」ワインを一口すすった。やけに喉が乾いた。「真津蛾さん、あんた、そんなたわごとを信じているんですか?」
疑り深い顔で真津蛾を見た私の目を見返し、彼は「やはり信じてくれないか……」と溜め息まじりに言った。
「まあ、信じる信じないは君自身の勝手だが……僕は信じる……いや、信じざるを得ない、と言うべきか……この十五年間、自分の目で様々な『現象』を見てきたからね」
「現象?」
「そうだ。とても信じられないような、しかし信じざるを得ないような『現象』だ。
とにかく、ここまで話したんだ。あと少しだから、続けさせてくれよ。
……さて……
この『念能エナルジー説』による理論体系を完成させた博士は、その後、何を目指したのか。
彼が次に興味を持った研究テーマは二つあった。
一つは、目に見えず耳に聞こえない念能エナルジーを感知し、防御し、貯蔵し、攻撃に使うための道具(武器)の開発。
もう一つは『詞雅見理論』と『ダーウィンの進化論』との擦り合わせだ。
まずは第一のテーマ、念能エナルジーを感知し、防御し、貯蔵し、攻撃に使うための道具の開発から説明しよう。
霊現象とは何ぞやという問いに答えを見出した博士は、いずれその理論が悪用されることを予想し、恐れた。
人類に対して悪意を持つ何者かが博士の論文に目をつけ、その理論の下、強い霊力を持つ子供たちを集めて悪しき教育を施し、自分たちに都合の良い思想を植え付け、兵士に仕立て上げたらどうなるか?
霊力を操り、相手に幻覚を見せ、壁ごしに念じるだけで物体を動かし破壊する犯罪者どもから善良な市民を守るためには、どうしたら良いのか?
エナルジーの弱い平凡な人間が、強い霊力を持った犯罪者と対等に渡り合うための『武器』の開発は可能か?
博士は充分に勝算があると踏んでいたようだ。
念能エナルジーがこの世界に物理的作用を及ぼすのなら、逆もまた真なりだろうと博士は考えた。逆に念能エナルジーも何らかの物理的作用を受け、制約を受けるだろうと。
現に、質量を持たず何処へでも自由に飛んで行けると思われていた『霊魂』が、実は空間的な制約に縛られているのではないかと推測できる証拠が幾つか見つかっていた。
『地縛霊』と呼ばれる現象は君も聞いたことがあるだろう?
ひとつの仮説として、何らかの方法で空間の一部を切り取ることができれば、念能エナルジーの攻撃から身を守れるのではないか。
また逆に、切り取られたその孤立空間の中へ念能エナルジーを誘い込み捕獲することも可能なのではないか。
問題は、どうやって空間と空間を切り離すか、だが……
結論から言えば、それを実現するための装置を完成させる前に、詞雅見博士は道半ばで死んでしまったらしい。
天才の死後、研究は『財団』に引き継がれた。しかし僕の見るところ、なかなか成果は上がっていないようだな。
霊的存在に一定のダメージを与える武器のようなものは何種類かあるようだが……効果は限定的だし、まだ未完成の試作品段階なのだろう。
え? なんで、そんな事を知っているのかって? 後で話すからもう少し辛抱してこの物語を最後まで聞いてくれ。
第二のテーマ、『詞雅見理論』と『ダーウィンの進化論』との擦り合わせに関しては、どうなったのか?
こちらの方も研究は完成しなかったみたいだな。
完成しなかったというより、博士自身が興味を失って途中で投げ出したみたいなんだ。
ひとつ分かったのは、念能エナルジーはほとんど全ての生物に宿るが、その強さには種族間で優劣があり、進化の進んだ知能の高い生物ほどエナルジーが強いという事だ。
つまり、細菌や微生物など原始的生物のエナルジーは殆どゼロと言っても良いくらいに弱く、昆虫類、魚類、両生類、爬虫類、鳥類……と進化するにつれてその力は強くなり、哺乳類、特に万物の霊長たる人間のエナルジーが理論上最強なんだそうだ。
それからもう一つ……研究の過程である副産物的な発見があった」
* * *
そこで真津蛾は、ひと呼吸入れ、「どうした? ずいぶんと眠そうじゃないか……酔いが回ったか?」と尋ねてきた。
「大丈夫です。ちゃんと聞いています」私は、アルコールで回らなくなった頭と呂律を無理やり回して答えた。とても眠かった。
「そうか……僕のこの異様な物語もいよいよ佳境だ」
真津蛾が言った。
「あと少しだ。あと少しで終わるから、我慢して聞いてくれ。
話を続けるぞ。
進化論上の副産物的発見とは……生物進化の過程で枝分かれした、人類とは別種の知的生命体の痕跡だ。
博士の研究によれば……はるか昔、人類と同等あるいはそれ以上の知能を持つ生物がこの地球上に存在し、我々の祖先と地上の覇権を争っていたらしい。
長い戦いの末、人類と異種族の闘争は人類の勝利で幕を閉じた。
ヤマタノオロチ伝説を始め、世界各地に残る怪物討伐の神話や伝承は、人類の勝利を讃える物語が変形したものなんだそうだ。
身体能力や肉体の強靭さ、念能エナルジーの量でも人類を圧倒していたその知的種族が何故負けたのか……それは今でも謎のままだ。
とにかく彼らは負け、人類に追われて空間の裂け目に逃げ込み、そこに閉じ込められた。
勝利した人類は名実ともに万物の霊長として地上に君臨し今に至ることはいうまでもない。
では、この地球から彼らの影響が全く無くなったのか?
答えは、否だ。
人類の中には極少数だが異種族に共感する者が居た。
彼らは、空間の裂け目に閉じ込められ長き眠りについたその知的生命体を『神』と崇めた。
歴代の権力者たちは、彼らに異端あるいは邪教の烙印を押し迫害した。しかし異種族を崇める人々は生き延びた。長い人類の歴史の陰に身を隠しながら。
……それだけじゃない……
一部の信者は……まだ異種族がこの地上で人類と争っていたころ、彼らと『霊的婚姻関係』を結んでいた。
契りを結んだ……セックスしたってことさ。
この意味が分かるかい?
つまり、彼らの血の中には、かつて人類と争った別の生命体の血が混じっているということなんだ。
はるか昔に地上から追われた異種族の遺伝子は、時が流れ、信者たちが代替わりする毎に薄くなっていった。現在では彼らの子孫のほとんどが、自分の体内に異種族の血が流れているなんて思いもしないまま一般人として平凡な生活を送り、そのまま生涯を終える。
しかし、彼らの能力は……優れた身体能力と強力な『念能エナルジー』は、確実に一部の人間に受け継がれ目覚めの時を待っているんだ。
そして、彼らの体内で眠っていた遺伝子が何らかの切っ掛けで発現すると、彼らは美しき異形となって……我こそは万物の霊長なりと驕り高ぶる人類に対し、その強靭な肉体と霊的エネルギーを駆使して復讐を開始するのだ。
……おや? ……どうしたんだ……藤本……テーブルに……突っ伏し……て……寝てしまっ……た……の……か?」
真津蛾の声がどんどん遠くなっていった。
飲み続けたアルコールの量は、一日の許容範囲をとうに超えていた。
もう目を開けていられなかった。
私は睡魔への抵抗を止めた。
意識が赤黒いワインの海へ沈んでいった。