2.
紅茶の入った茶碗を二つテーブルの上に置き、私はテーブルを挟んで真津蛾晴男の反対側に腰を下ろした。
「ありがたく頂くよ」そう言って彼はカップを右手で持ち上げた。
その時になってようやく私は、真津蛾が安物ジャンパーのポケットから左手を出さないでいる事に気づいた。
私の不審顔と視線に気づいたのだろう。「ああ、これか……」と言って、彼は自分の左手をポケットから出して私に見せた。
左手首から先、ジャンパーの袖から出ている部分に包帯がぐるぐる巻きに巻かれていた。
「どうしたんですか? それ」驚いて私が尋ねると、真津蛾は「まあ、ちょっとね」と言った。
なに、かすり傷だ大した事は無いよ、という感じの言い方だった。
純白であるべき包帯は彼の着ているもの同様、薄汚れていた。
(何日も取り替えていないのか……?)私は、衛生面は大丈夫なのかと不安になった。
「仕事中だったかな?」紅茶を一口飲んでティーカップをテーブルに置き、私の顔を見て、真津蛾が聞いてきた。
「作品づくりの邪魔をしてしまったか?」
「いえ……今日はまだ取り掛かっていませんでしたから……」
本当は『さあ、これから』と思ったその出鼻を挫かれた格好だったのだが、それは言わないことにした。
「十五年も音信不通だったくせに、今さら急に何をしに来た……って顔をしているな?」口元に薄っすら笑みを浮かべ、真津蛾がさらに尋ねた。
「いや……別に……」
「それとも、この落ちぶれた姿を見て『もしや、こいつ金でも借りに来たのか』と勘繰ったか?」
「止してください。そんなこと思っていません」
「信じられないかもしれないが、見た目ほど金に困っている訳じゃないんだ。この服は……」そう言って真津蛾は自分のジャンパーを摘んだ。「一種の偽装……変装さ」
「変装、ですか?」
「家族と別れる時、親父が餞別だと言って札束の詰まった鞄をくれた。この家の玄関先に停めさせてもらったオンボロ中古車のトランクに放り込んである。現金なら何処で使っても足跡が付かないからな」
家族との別れ? 餞別? 現金? ……急に話が怪しい方へ向かいだした……この人、本当に大丈夫なんだろうか。
「ますます話がわからなくなった、って顔をしてるぞ」
「ええ。まあ」
「心配するな。旧友に迷惑は掛けんよ……ただ……」
「ただ?」
「一晩だけ、ここに泊めてくれ」
彼のその言葉を聞いた瞬間、私は『やれやれ困った』という感情を顔に出していたと思う。
今の私は、山奥のアトリエで独身暮らしだ。気を使うべき家族は無い。
私の性分からして、彼がアトリエに居る間は仕事が手につかないだろうが、芸術家稼業に日々達成すべきノルマがある訳でもない。
彼の来訪によって既に私の心は平静ではなくなっていた。このまま彼が帰ろうが帰るまいが、どのみち丸一日は仕事にならないだろう。
むかし世話になった友人を一晩泊めるくらい、どうという事もない……むしろ良い気分転換になるだろうとさえ思った。
……しかし……
「一泊が二泊、二泊が三泊と、ずるずる連泊されるのは迷惑、か?」真津蛾が私の表情を敏感に読み取って言った。
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「約束するよ。一晩だけだ。明日には出て行く」
「……」
若き日々、自堕落な生活に溺れていた頃の真津蛾には、何事もずるずる一日延ばし二日延ばしにする傾向があった。
例えば……誰かの家(たいていは独身で金持ちの悪友)のパーティーに呼ばれ、そこで一晩じゅう酒を飲んだとしよう。当然、翌日は二日酔いで身動きが取れない。仕方がないので、家の主人である悪友に「もう一晩だけ泊めてくれ」と頼み込む。ところが、泊める方も放蕩者なら泊まる方も放蕩者だ。当然のように次の晩も酒盛りが始まる。また二日酔いになる。次の日も、そのまた次の日も……一週間が過ぎる頃には、さすがに家の主人である悪友も愛想を尽かし「さっさと出て行け、二度と来るな!」と言って真津蛾を家の外に蹴り出す……
十五年前、彼の周囲にはこんなエピソードが幾つも転がっていた。
当時の私は、そんな真津蛾の『武勇伝』を、多少の憧れを持って聞いていた。
しかし十五年の歳月を経て、私を取り巻くあらゆる物事が変わってしまった。
何より私自身が変わった。
私生活、社会的地位、物事の優先順位……
今は、この静かな生活が一番大事だ。
かつての親友真津蛾晴男だろうと誰だろうと、この暮らしを乱されるのは御免だった。
私は答えに窮して黙り込んでしまった。
口を『へ』の字にして渋面を作る私を、真津蛾はしばらく見つめていた。
それから小さく一つ溜め息を吐き、彼はジャンパーの右ポケットから小さな安ウイスキーの瓶を取り出し、右手だけで器用にキャップを開け、そのまま口を付けてグビグビと喉を鳴らし、あっという間に中身を全て飲み干してしまった。
私は一瞬あっけにとられ、次の瞬間(やられた!)と思った。
ここは人里離れた森の中の一軒家だ。
真津蛾の言葉を信じるなら、彼はこの場所までマイカーで来たらしい。
小瓶とはいえ度の強いウイスキーを飲み干してしまっては、もう車を運転して帰ることは出来ない。
無理に車に乗せて追い返し、そのあげくに事故を起こされたり警察に捕まろうものなら、彼だけでなく、飲酒運転を黙認した私まで処罰の対象になってしまう。
罰金はともかく、私の芸術家としての名に傷が付くようなリスクは冒したくない。
タクシーを呼ぶか?
しかし、彼が運転して来たという『オンボロ中古車』とやらは、どうする? 家の前に置きっぱなしにされても迷惑だ。
(まったく……)
自分勝手は昔からだが、いつ、こんな狡猾さを身につけたのか……
私の中から込み上げて来たのは、しかし、彼の自分勝手に付き合わされる苛立ちではなく、ある種の痛快さだった。
「まったく……あんたって人は……」私は呆れ半分、笑い半分の顔で言った。「いつまでも変わらないな。子供っぽいというか、何というか……いや、こりゃ一本取られましたよ」
一本取られたと言いつつ、不思議と爽やかな気分だった。
「良いでしょう。あそこで良かったら……」
私は書斎の隅に置いてあるソファを指差した。
リラックスして読書に耽りたいときに座ったり寝ころんだりして本を読むために置いたソファだ。
「あそこで良かったら、どうぞ一晩ベッド代わりに使ってください。あとで毛布も持って来ましょう」
「ありがとう。助かるよ」
「しかし、何でそんなに私のアトリエに泊まりたがるんですか?」
「十五年ぶりに旧友に会ったんだ。若き日のように、久しぶりに朝まで飲み明かしたい……って理由じゃ、納得できんか?」
「いや、まあ……」
納得した訳じゃないが、とりあえず、そういう事にしておいた。
* * *
私は席を立ち、再び台所へ行って、こんどはブランデーの瓶とグラスを二つ持って来た。
さらにチェイサー代わりの缶ビールと、つまみのクラッカーの箱。
「もう少し気の利いたものを出せれば良いんですがね」
「なに、上等だよ」
クラッカーを皿にあけ、グラスにブランデーを注ぎ、乾杯する。
「あのころ真津蛾さんに飲ませてもらった酒に比べたら、水道水よりはマシって程度の代物ですが」
そう言って私は自分のグラスに二杯目を注ぎ、ついでに真津蛾のグラスにも注いだ。
「そんな事ないだろ。旨い酒じゃないか……社会的成功、経済的成功の味がするよ」
「それ皮肉ですか?」
「第一、酔っぱらってしまえば百万円のシャンパンも百円の合成酒も変わらんよ。それが真理だ……百万円のシャンパンを散々飲み続け、落ちぶれてからは百円の合成酒を散々飲み続けた挙げ句やっと見つけた真実さ」
真津蛾は二杯目をグイッと呷り、こんどは手酌で自分のグラスにブランデーを注いだ。
私も負けじと急いで二杯目を飲み干し、三杯目を注いでグラスに口をつけた。
こうして、私たちはクラッカーを齧りながら酒を飲み続け、あっという間に昼になり、あっという間に最初の一本が空になり、私は地下のワインセラーのコレクションから一本選んで持って来ては封を切り、空になるとまた地下へ降りて一本持って来ては封を切った。
三時だったか四時だったか、さすがにクラッカーだけでは腹が減ると言って、私は台所へ行って食パンを焼き、ウィンナーを茹でて、二人で遅い昼食とも早い晩飯とも言えない食事を摂った。
そしてまた飲んだ。
飲みながら昔話で大いに盛り上がった。
話の内容はいちいち書き記すほどの事もない。
多少は分別のついた今から振り返れば、愚かで下品で悪趣味な乱痴気騒ぎの繰りかえしだった。
肥溜めに札束を投げ込んでグチャグチャにかき混ぜていただけだ。
しかし十五年も経てば肥溜めの臭いも美しい思い出に変わる。
久しぶりに会った真津蛾と酒を飲みながら遠い日々を語るのは、予想以上に楽しかった。
私には孤独が似合っていると自分で思っていたが、こんな山奥のアトリエで暮らしながら、やはりどこか人恋しい部分があったのかも知れない。
「朋あり遠方より来る、か……」思わず私は呟いていた。
「また楽しからずや、って思ってくれてるなら、光栄だね」真津蛾がワイングラスを上げて言った。
なるほど、こんなに楽しい時間は何年ぶりかと思った。
しかし、友人と酒を酌み交わし昔話に花を咲かせる私の頭の中には、一点だけ、小さな不審がシミのようにこびり付いていた。
匂いだ。
最初に玄関を開けて挨拶を交わした時から、妙な匂いが彼の周囲に漂っていた。
はじめは気づくか気づかないかという程の微かなものだったが、酒を飲むごとに、それは徐々に強くなっていった。
何日も風呂に入っていないとか、服を洗っていないとか、そういう不潔さから来る悪臭ではなかった。
何というか……甘ったるい……とでも言えば良いか……
不快かと聞かれれば、必ずしもそうでもなかった。
ただ……『奇妙な』匂いだった。
酒を飲み続け、テーブルの周囲に転がる空き瓶が増え、酔いがまわって嗅覚が鈍ってくると、それも別にどうでも良くなった。