第六話
結局、根負けしたのは私だった。
「先輩、もうすぐ夜になりますよ。暗闇の中で泳ぐのは危険ですから、いい加減あきらめてくれませんか?」
「ヤダ、絶対にヤダ。私は今日のために頑張ってきたの、今日のために生きてきたの、今日しかないの! 絶対に、今日、勝負を決めたいの。それだけは譲れないの」
先輩の目は、今にも泣きだしそうだった。そのくせ、うるんだ瞳は力強く、そして、鋭かった。そんな、不安定で力強い先輩の瞳を見て思った。
――先輩の思いは、私より強いのかもしれない。
「私にはもう、後がないのよ。今日の選考会レースで新垣にも美奈高にも負けたわ。残りの出場枠はあと一つだけ。つまり、私はあんたを倒すしかないの! 今! ここで!」
「……わかりました。勝負しましょう」
「ほ、ほんとに?」
私はこのとき、気付いてしまった。先輩の声が、微かに、震えていたことに。
私にも、少なからず経験がある。勝負をするということは、文字通り勝ち負けを決めるということだ。勝つこともあれば、負けることもある。そして、「負けるかもしれない」と考えることは、とても怖くて恐ろしいことだ。
勝負とは、勝者を称える一方で、“敗北”という、恐ろしい現実を受け入れるための儀式でもあるんだ。そりゃ怖いよ、恐ろしいよ。勝つために、いろんなことを犠牲にして来たんだ。何度も何度も勝利を夢に見て来たんだ。勝つことは夢そのものだったんだ。その夢が、破れるかもしれない。今までやって来たことが全て無駄になるかもしれない。自分には才能がないと認めなければいけない……あぁ、恐ろしい、恐ろしすぎるよ。
これほど恐ろしい“敗北”が、勝負の先に待っているかもしれない。そう思ったら、普通の人は怖くて一歩を踏み出せない。
でも、先輩は違った。敗北という恐怖に体を震わせながら、勇敢に一歩を踏み出した。先輩はとても強い人だ。敗北が怖くて勝負という舞台に立つことすらしない弱虫野郎とは違う。でも……。
「さぁ、勝負よ。位置に着いて、よーい、スタート!」
でも、心の強さと、実力は別物だ。先輩がどんなに強い人でも、どんなに努力をしても、越えられない壁はある。悲しいけど、それが現実だ。
私はそんなことを考えながらスタートを切った。そう、いつだって強者は弱者の夢を簡単に踏みにじる。でも、それはしょうがないこと。だって、夢は希少価値の高いものだから、奪い合うものだから。先輩が夢を叶えてしまったら、今度は私の夢が叶わなくなってしまう。
――そんなのは、ごめんだ。
私はオリンピック選手になると決意したあの日から、わがままになると決めたんだ。他の人の夢や努力を踏みにじってでも、高みに上り詰めるって決めたんだ。
私は泳いだ。夏の夕刻の川波はひんやりとしていて、気持ちが良かった。