第五話
「わかったわ。あなたがそこまで頑なに川から出ないと言うのなら、私が川に入ります」
「へ?」
そう言うと、づかちょん先輩は制服姿のまま、川の中に入ろうとした。
「ちょ、ちょっと! 先輩なにやってるんですか! 服濡れちゃいますよ。やめてください」
私は必至に先輩を止めようとした。しかし、先輩は止まらない。そういえば、普段から先輩は頑固であり、一度こうと決めたら周りが何を言っても聞かない性格の持ち主だった。
「さぁ、これで条件は整ったわ。いざ、地区大会の出場枠をかけて、私と勝負よ」
「せ、先輩……いったい何を言っているのですか?」
私は先輩の目を見た。先輩の目は鋭くて、はるか遠くを見据えていた。これは、冗談を言っている人間の目ではない。
「ルールは、そうね、同時にスタートして、あそこに見える『天津橋』に先に到着したほうが勝ち、ということでどうかしら?」
私たちが今いる場所から見て、百メートルくらい先の下流に小さな桟橋がある。その桟橋は『天津橋』と呼ばれていて、しばしば川の向こう岸に住む学生たちの通学路となっている。
天津橋は歴史のある橋であり、架橋されたのは戦後まもなくの頃であるという。橋の両脇にはこの町の町花である「虎百合」の彫刻が彫られていて、芸術的にも歴史建築的にも価値の高い橋であると社会の先生が言っていた。ただ、地元の学生からしたら、「今にも崩れ落ちそうなぼろい橋」という認識しかないのが実状だ。
かくいう私も、天津橋のことを幼少期から「おんぼろ橋」と呼んでいた経緯があり、とくに暗い夕夜には通りたくないと思っていた。だって、お化けが出てきそうで怖かったんだもん。
「先輩……私は今勝負なんかしている場合じゃないんです。本当に困っているんです。このままじゃ、一生この川か出られないかもしれないんです」
先輩の気持ちはわからなくもない。先輩の三年間の集大成が実るか実らないかの瀬戸際なのだから。でも、私の方だって人生がかかっている。このまま一生川の中なんて、絶対に嫌だ。
「準備はいいわね? 位置について、よーい、スタート!」
先輩は私の話を完全に無視し、一人で天津橋に向かって泳ぎだした。川の流れに乗り、どんどん遠ざかっていく先輩のことを私がぼんやりと眺めていると、先輩は途中でいったん泳ぐのをやめ、クルッと振り返り、今度は上流に向かって泳ぎだした。川の流れに逆らって泳ぐのは大変らしく、先輩は少し苦しそうな顔で息継ぎをしていた。しばらくすると、先輩は私の隣まで戻って来た。
「マコ、私のスタートの合図が聞こえなかったの?」
先輩はゼーハーゼーハー言いながら、私を睨んでいる。
「先輩、私の話を聞いてなかったんですか?」
「今度こそ勝負よ! いいわね?」
「先輩、私は今、勝負なんかしている場合じゃないんです。河童から尻子玉を奪わないといけないんです」
「さぁ、いくわよ!」
「先輩、いいかげんにしてくれませんか?」
私と先輩は不毛な会話のドッチボールを続けた。自分の主張を相手にぶつけるだけ。二人とも、会話のキャッチボールが苦手だった。
気が付くと、空には夕日が浮かんでいた。セミも鳴いている。あぁ、夏が暮れていく。私はこんなところで何をしているのだろうか? 何とも言えない焦燥感が胸を襲った。