第三十二話
「マコ、大丈夫だった?」
数時間後、カナミが川に来た。『龍のくしゃみ』のことはすでにニュースとなっていて、川に近寄らないように勧告が出されたという。
「うん、大丈夫よ。あれぐらいのくしゃみ、なんてことなかったわよ」
「くしゃみ? なんのこと?」
「え、ああ、うん。まぁそれはさておき、カナミに頼みたいことがあるのだけれど」
「何?」
「あのね、病院に行って……」
「あぁ、速水君のことでしょ? 大丈夫よ。私、速水君が橋の近くにいたこと知っていたから、鉄砲水のニュースを見た後すぐに連絡したの。そしたら病院にいるっていうから、すぐに様子を見に行ってきたわ。意識もハッキリしていたし、一日安静にして様子を見たらもう退院だって」
「え? 何の話?」
ケンタが病院に? なぜ?
「あれ? 速水君の様子を見て来て欲しかったんじゃないの?」
「ケンタがどうしたの?」
「どうしたのって。速水君、溺れたのよ。鉄砲水に飲まれてね」
「うそ! 大丈夫だったの?」
なぜケンタが鉄砲水に? わけがわからない。足を滑らせて橋から落ちたのかしら? あのバカならありえないわけじゃないけど。
「だから、大丈夫だってば。それより何? あんたの頼み事って? 速水君のことじゃないんでしょ?」
「ああ、えーっと、ユウイチ君っていう男の子のことなんだけど……」
「あぁ、あの子供のことね。大丈夫よ。あの子も無事みたい」
「ほんとに! よかったぁ」
私はユウイチ君の安否が気になっていたので、大変安堵した。
「ニュースで言っていたわよ。なんでも久冨さんが溺れているところを助けたんだって。さすがオリンピック選手ね。鉄砲水の中を泳いで、溺れている子供を助けるなんて並の人間じゃできない芸当だわ」
「久富さんが? ユウイチ君を助けてくれたの?」
「えぇ、ニュースではそう言っていたわよ。完全にヒーロー扱いだったわ」
記憶を思い返す。必死に泳いでいるとき、確かに誰かが川に飛び込む気配を私は感じた。あの気配は久冨さんだったんだ。ユウイチ君を助けてくれたのは、久冨さんだったんだ――。
私は正直嬉しく思った。橋の下で聞いた久富さんの言葉は、理想とかけ離れていて、私は正直、幻滅していた。でも、それは勘違いだった。やっぱり久富さんは私の命の恩人だ。憧れの人だ。溺れている子供をほっておけない、心優しい人なんだ。
橋の下で聞いた言葉はきっと、久冨さんの本心じゃなかったんだ。ガキンチョであるケンタに対して、大人としてしっかりと怒ってくれていたんだ。
私はやっぱり久富さんは理想通りのすばらしい人だと感じた。久富さんに会いたい、会ってお礼を言いたいと、改めて強く思った。
「あんたの無事も確認できたし、私行くわね。用事があるのよ」
「用事って何?」
「頼まれごとよ。速水君に頼まれたのよ。マコが無事かどうか確かめて来てくれって」
「あぁ……」
「速水君、開口一番にマコの名前を出していたのよ。マコのことを自分のことよりも先に心配していたの」
「うん」
「まだちゃんと速水君に返事してないんでしょ?」
「うん」
「気まずいのはわかるけど、一度ちゃんと会いなさい。じゃないと速水君がかわいそうだわ」
「わかった。私、ちゃんとケンタと会うよ、ちゃんと返事するよ」
「まぁ、それならいいけれど。じゃね」
そう言うと、カナミは病院へと向かった。
それは、カナミが帰ってから十分後のことだった。再び『龍のくしゃみ』がやってきた。今回もどこから来たのか皆目見当もつかないほどの大量の水が、前兆もなく突如として上流から押し寄せて来た。
私は『龍のくしゃみ』に飲まれ下流へと流された。
「はぁ、はぁ、はぁ、また『龍のくしゃみ』……」
私はあまりにも頻繁に『龍のくしゃみ』がやってくることに、一抹の不安を感じた。これは何かとてつもないことが起きる前兆なのではないだろうか?
そう思った。
「お嬢ちゃん。ちょっと来な」
私が再び上流の平たい岩まで戻ると、川岸から声をかけられた。そこには魔女がいた。魔女はとても険しい顔で手招きしていた。
「尻子玉はまだ手に入れられてないのか?」
「うん、まだだけど」
「なにやってんだいこのグズが」
「ちょっと、グズってひどくない? こっちだって一生懸命やってんのよ」
「事情が変わったよ。私の予定よりもずいぶんはやくなってしまった」
「何の話?」
「『龍』が来るんだよ。本当はまだ一年以上先のはずだったんだけどね。この前の地震がおそらく原因だろう」
「『龍』って、町全体が水没するほどの水鉄砲が来るってこと? いつ?」
「このままいけば、一週間後だ」
「い、一週間! 嘘?」
「本当さ。一週間後、この町は壊滅するだろう」
「そんな……どうにか、どうにかできないの? あんた魔女でしょ! 魔法でどうにかできないの!」
「できるさ。ただ、そのために尻子玉が必要なんだよ。だから、お嬢ちゃんを川に閉じ込めて、河童から尻子玉を奪ってくるように命令したわけなんだが、もうタイムリミットだ。“最終手段”を使うしかない」
魔女はため息をつき、ゴホゴホと咳き込んでから、恐ろしいことを言った。
「河童を――殺す」
「ちょ、ちょっと! 河童を殺すってどういうことよ」
「町を救うには尻子玉が必要なんだ。本当は河童を殺さずに尻子玉を手に入れたかった。河童を殺すのは私にとっても多大なリスクを伴うからな。だが、今は事情が変わってしまった。時間がない。河童を殺して尻子玉を奪う他ないだろう」
魔女の目は黒く澄んでいて、何かを決意したような鋭さを持っていた。
「ちょ、ちょっと待って」
私は河童を殺されたくなかったし、町が壊滅してしまうのも嫌だった。どちらか一つなんて選べない。
――私はとても、わがままなのよ。
「私に時間を頂戴」
私は諦めない。まだ一週間も時間があるんだから、諦めるにはまだはやい。
「お嬢ちゃん、できるのかい?」
魔女は眉ひとつ動かさずに私を睨みつけた。まるで心の中まで睨まれているように感じた。でも、私は怯まない。河童も、町も、私が絶対に救ってみせる。
「任せて。私が絶対に尻子玉を手に入れるから」
「……いいだろう。お嬢ちゃんに“一日”猶予をやろう。それ以上は待てないよ。明日の夕刻、ここで再び落ち合うことにしよう。そこで、尻子玉が手に入らなければ、河童を殺す。いいね?」
「うん、わかったわ」
「キヒヒヒィ、良い目だね。くりぬいて部屋に飾りたいくらいだよ」
魔女は不気味なことを言いながら去って行った。




