第二十九話
「おねいちゃん、河童さん、遊びに来たよ。泳ぎ教えて!」
午後四時頃、ユウイチ君が遊びに来た。学校帰りらしく、背中にはランドセルを背負っていた。
「はぁ、はぁ、ユウイチ君」
私は河童の鬼のようなしごきに大変疲れていた。もう十セット近く『河童の二度手間』状態を行っている。インターバルは一分もない。まさに地獄の特訓だった。
「おお、ユウイチいいところに来た。おまえも特訓してやろう」
そう言うと河童は川から上がり、ユウイチ君に甲羅を被せ、「ユウイチ、屁の河童」と呪文を唱えた。
すると、ユウイチ君は前回と同じように小さな河童に変身した。背中には甲羅がある。先ほどまで担いでいたランドセルまでもが変化したようだ。さらに頭にはお皿、口には黄色い嘴が付いていた。
その姿は完全に子河童だ。
「カパパパ! 河童さんありがとう」
ユウイチ君はカパパパと笑いながらお礼を言った。そして、川に入り、まるでアメンボのようにスイスイと泳ぎ始めた。その表情はとても楽しそうだった。
「ねえ、河童。前から気になってたんだけど、あんたのその奇妙な術は、魔法なの?」
私はずっと疑問だった。これは魔法なのだろうか? 河童も魔法を使えるのだろうか? もし、これが魔法だとしたら、河童は何を対価に支払っているのだろうか?
魔女は言っていた。魔法を使うためには、それと同じ価値の何かを失う必要があると。
「ああ、これか? これは魔法じゃない。魔法みたいなもんだが、正確にいうと違う」
河童は空を見上げて、少し何かを考えてから、話を続けた。
「粘土があるだろ」
河童は唐突に「粘土」という言葉を口にした。魔法と粘土にいったいどんな関連があるのだろうか。私には皆目見当が付かなかった。
「粘土って、あの、好きな形にこねて遊ぶ、あの粘土のこと?」
「そうだ、その粘土だ。粘土を……そうだな、千円札で買うことが魔法だとしたら、俺がやっているのは粘土をこねくり回していろんな形に変えているだけだ……言っている意味、わかるか?」
私は首を横に振った。意味不明だった
「魔法は等価交換だ。たとえば、粘土を千円で売って、千円札を得たとしよう。今度はその千円札を使って、花束を買ったとしたら、『粘土』は『花束』という別の性質を持つものに変化したことになる。性質は変化したが、『千円』という価値は一緒だから、等価交換が成立している。これが魔法だ。一方で、俺がやっているのは、性質そのものを変えることはできないが、表面上の形だけは変えることができる、なんちゃって魔法だ。『粘土』という『性質』そのものは変えられないが、粘土の『形』は変えることができる。それが、俺のやっている妖術だ。どうだ、わかったか?」
私はうんともすんとも言えなかった。
河童は眉間にしわを寄せて話を続ける。
「『河童の川流れ』は川の流れを変えるが、川という性質を変えたわけじゃない。川そのものが失われたわけじゃない。『屁の河童』もそうだ。ユウイチの見た目は人間から河童に変わったが、ユウイチという個性が変わったわけじゃない。だから、川もユウイチも時間が経てば元の状態に戻る。川やユウイチにとって、最も自然な状態に、勝手に戻るんだ。それが妖術だ。一方、これが魔法だった場合、ユウイチという個性そのものが失われて、価値の等価な『別の何か』に変わる。そして、それは時間が経っても元に戻らない。だから魔法は恐ろしい。うかつに使えば、存在そのものがこの世から消えてしまう危険性があるんだ。わかったか?」
私は口をぽかんと開けて、わかったフリして頷いた。
河童はとうとう面倒くさくなったのか、頭を掻いて欠伸をした。
「まあ、俺も詳しく理解しているわけじゃない。感覚で、なんとなく使える妖術なんだよ。自然に属する者はたいてい、妖術を使える。四季の移り変わりと一緒だ。秋になれば緑が紅葉するだろう。やっていることは、それと同じことだ」
河童はそう言うと、川に潜ってしまった。もう少し話しを聞きたかったのに、残念。
「おねいちゃん、一緒に泳ごうよ」
ユウイチ君が私に手を振っている。私は手を振り返す。
「ユウイチ君、河童の姿は十五分しか持たないんだからね。気を付けてね。また溺れちゃだめだよ」
「カパパパ!」
ユウイチ君は私の心配をよそに、下流に向かってスイスイ泳いでいく。
「ちょっと、ユウイチ君! あんまり遠くに言っちゃダメだってば」
私は河童の妖術が解けてしまった時にすぐに助けられるように、ユウイチ君を追いかけて下流へと泳いだ。子河童に変身したユウイチ君の泳ぎはとても速く、さすがの私でも全力で泳がないと付いていけないほどだった。
「おねいちゃん、なんか人がたくさんいるよ」
天津橋まで来たところで、ようやくユウイチ君が止まった。
「ほんとだ。ユウイチ君、隠れましょう」
天津橋の上にはたくさんの人がいた。中にはカメラを持っている人もいる。私は河童に変身しているユウイチ君が見つかってしまうと大変マズイと思い、すぐに川に潜って、天津橋の橋下に隠れた。
「ユウイチ君、ここでじっとしているのよ、いいわね」
私はユウイチ君にそう言うと、一人で橋下から出て、橋上の様子をこっそり伺うために視線を上げた。
――赤い帽子をかぶった男性がこちらを見ていた。しまった、気付かれた。
「あの」
私は気付かれてしまったので、何をしているのか直接聞くことにした。
「あの、すいません」
私は何度か声をかけたのだけれど、赤い帽子の男性は完全無視だった。「なんだ?」と言いながら、何度か私の方を見て首をかしげるだけで、私の問いかけにまったく応えてくれなかった。
私は「無視すんじゃねーよ」と思い、イラッとした。でも、これ以上話しかけても無駄だと思い、再び橋下に身を隠した。
「なんだったの? ねぇ、なんだったの!」
ユウイチ君の目はランランでとても興奮していた。撮影カメラやよくわからないたくさんの機材に対して、ユウイチ君はとても興味津々だった。
「撮影があるみたい。内容はよくわからなかったけど」
「僕も見たいなぁ。ねぇ、少しだけ、少しだけ覗いてきちゃダメ?」
ユウイチ君は目をウルウルさせている。正直かわいいので許可してあげたくなる。でも、ダメなものはダメだ。河童の存在がばれたら大変なことになる。
「だーめ。とりあえず、撮影が終わるまでここでじっとしているのよ。いいわね? 約束よ」
「えー、僕も見たいなぁ」
「ダメなものはだめ! わかった?」
「うーー! わかりました。ここでじっとしています」
ユウイチ君はなぜか敬語でそう言うと、頬を膨らませて嘴を尖らした。その表情はとても不満気でかわいらしかった。
「久富さんがいらっしゃいました!」
数分後、先ほどの赤帽男の声が聞こえた。久富さん? もしかして、久冨さんが撮影に来ているの? 私は思わず興奮した。あれほど会いたくて恋い焦がれた久富さんが今、私の頭上の橋にいる。
そう思うと、居ても立ってもいられない。
私は久冨さんを一目見ようと思い、橋下から出ようとした。その時、
「久富さん、お願いがあります!」
聞き覚えのある声が頭上から聞こえて来た。この声は――ケンタだ。速水ケンタの声だ。私は、橋下から出るのをやめ、耳を澄ますことにした。
「なんだおまえ! 撮影の邪魔だ、どっか行け一般人」
赤帽男の怒鳴り声がする。ケンタに対してそうとう怒っているようだ。
「話を聞いてください久富さん!」
詳しくはわからないけど、どうやらケンタと赤帽男が取っ組み合っているようだ。大丈夫だろうか? 喧嘩に発展しなければいいけど。私は少し不安に思った。
「会って欲しい人がいるんです。俺の同級生で、ずっと、久冨さんのファンで、ずっとあなたに会いたい会いたいって言ってるやつで……」
ケンタが久冨さんに直談判している理由は――私だった。
胸が苦しくなった。ケンタが私のためにここまでしてくれるなんて……。嬉しい気持ちと、それでもケンタの想いに応えられないという気持ちが、胸を締め付けた。
「いいかげんにしろ!」
赤帽男がさらに激しく怒鳴る。ケンタ、私のことはもういいから、やめて。
「帰れクソガキ」
突如、聞き覚えのない声がした。誰の声だろうか? 赤帽男でもケンタでもない。低くて深みがある声だ。そして、まるでヤクザのような怖い声だ。
「俺は、おまえみたいなクソガキが大嫌いなんだ。俺に会いたい奴なんて、ごまんといるんだ。そいつら全員に会っていたらきりがないだろ? それともなんだ、おまえは自分だけは特別だとでも思っているのか? 大概にしろ。主人公気取りか? 自分の都合だけで人様に迷惑をかけやがって、いい気になるなよ」
ドスの利いた怒鳴り声が橋の上で響いた。あたりが静寂に包まれた。そこにいた誰もが驚いて声を出せずにいた。そして、私も。
この声はまさか……久富さん? まさか……。
私は戸惑った。この声の主が久冨さんだなんて信じられない。けれど、状況から推測するに、この声は久冨さんである可能性が高い。でも、あの久冨さんがこんなこと言うはずがない……。
天津橋の下、現実を受け入れられず、私が茫然としていると、“それ”は突然やって来た。
「おい、何だあれ? ……鉄砲水だ!」
上流に目をやった時にはすでに手遅れだった。
私の目の前には水の壁が押し寄せていた。まるで走馬灯のようにスローモーションに見えた。全長五メートルくらいはあるだろうか? 見上げると、空が隠れて見えないほどの高さだった。
何の気配もなく、これだけの水が一瞬で押し寄せてくるなんて……間違いない。
これは『龍のくしゃみ』だ――。
「ユウイチ君!」
振り向いてユウイチ君の名前を叫んだ瞬間、私は『龍のくしゃみ』に飲まれた。




