第二話
私が住んでいる町には、「卍川」と呼ばれる大きな川が流れている。
その名の通り、上空からみると卍の形をしている川であり、二つの川が合流し、再び二手に別れて海を目指して流れている、ちょっと変わった川だ。
二つの川が合流する『卍』の中心点から見て、北側の上流を「北卍」、東側の上流を「東卍」、西側の下流を「西卍」、南側の下流を「南卍」と呼んでいる。
東卍には私たち町の人間が「温森」と呼んでいる森林がある。東卍の源流はこの森林の先にあるらしく、森林から発せられるマイナスイオンのおかげで、川の流れは非常に穏やかだ。本当は傾斜が緩やかなだけなのだろうけれど、私は地図を見たことがないし、見たところで傾斜なんてわからないから、実際のところよくわからない。また、近くに温泉の源泉があるらしく、水温が比較的高い。
西卍には工場がたくさんある。そのため、川の水はあまりキレイとは言えない。ちなみに、私の家はこの西卍の付近にある。あと、水深が浅い。膝くらいまでしかない。
南卍には何もない。川の先に、ただ広大な海が広がるだけ。
そして、北卍。北卍は東卍よりも川幅が広く、流れも速いし、水深も深い。その源流は遥か先にそびえ立つ『弁天山』であるらしく、山のミネラル分が豊富に含まれているため、飲料水として利用する人も少なくない。また、比較的山に近い上流なので、大きな岩が川の中に散在している。そのため、岩によって流れが複雑に変化し、激しい濁流が渦巻いている。
そういった環境もあり、この北卍は水難事故が最も多い場所なのだ。私が川に閉じ込められる切掛けとなった少年が溺れていたのもこの北卍だ。
そして、その昔、私が溺れた場所でもある。 あれは、私が小学四年生だった頃のこと。確か、今日みたいにとても暑い夏の昼下がりだった――。
「ま、マコ、やっぱり帰ろうよ。お母さんも危ないから北卍で遊ぶなって言っていたし……」
「うるさいなぁ。ケンタはほんと、臆病なんだから!」
夏休みの半ば、私は幼馴染の『速水ケンタ』と一緒に北卍に遊びに来ていた。当時から北卍では水難事故が多発していたため、小学生は遊泳禁止とされていたのだけれど、私の冒険心にとって“禁止”という言葉は、行動を起こすためのただの燃料でしかなかった。
「ほら、大丈夫だってば! 今日は天気もいいし、流れも緩やかだから溺れる心配なんてないよ。それに、もし溺れても私が助けてあげるから」
当時から私は泳ぐのが得意だった。学校では当然一番だったし、県内の水泳大会でも敵なし。「将来はオリンピック選手だね」と、周りの大人達が口々に言うほどだった。
だから当時の私は心のどこかで「こんなに泳ぎの得意な自分が溺れるはずがない」と思っていた。これは完全な“思い上がり”だったのだろうけれど、小学四年生の幼い私は、自分が思い上がっているということに気付けなかった。
「あぁ、気持ちい~。あ、ほら! ケンタ、魚がいるよ!」
正直、台風の中でも溺れることなく岸まで泳ぎ切る自信はあった。実際、泳ぎ切れたのだと思う。それだけの能力を、私はほんとうに持っていたの。でも、どんなに能力が高くても、人間にはどうしようもないことがある。
それを、私は初めて知った。
「マコ!」
「え?」
それは、ほんとうに突然の出来事だった。先ほどまで穏やかだった清流が、豹変した。
「ゴゴゴゴゴゴゴォオオオ!」
まるで地鳴りのような轟音。私はすぐに音のするほうを振り向いた。瞬間、巨大な水の壁が私の視界を遮った。悲鳴をあげる暇もなかった――。
後に偉い学者さんがテレビで言っていたことだけれど、これは『龍』と呼ばれる現象だった。『龍』とは、膨大な水が、まるで鉄砲水のような勢いで川に突如として押し寄せてくる現象のことであり、その詳しいメカニズムは未解であるという。過去に観測されたのは今から百年以上も前のことであり、めったに起こらない現象らしい。
そんな極々稀な現象に、小学四年生の私は運悪く遭遇してしまったのだった。ほんと、私は昔から理不尽でかわいそうな子だった。
そんな理不尽でかわいそうな私は、強大な災害を前になすすべなく、ただ流された。上も下もわからなかった。自分がどれくらい流されたのかもわからなかったし、水をいくらか飲んでしまい、すごく苦しかった。泳ぎが得意とか苦手とか、そんな次元の話ではなかった。泳ぐことなんか不可能。私にはただこの『龍』の流れに身を任せることしかできなかった。
“あぁ、私はこのまま死ぬのだろうか?“
もうろうとする意識の中、私がついに死を意識したその瞬間、誰かの手が私の腕を掴んだ。その手は、ものすごい力で私の腕を締め付けた。
幼い私は、その手は“死神の手”だと思った。
いよいよ私は、この“死神の手”によって深く暗い川底に引きずり込まれるのだと思った。そう思うと、怖くて怖くて、何とかしてその手を振りほどこうと必死にもがいた。そのとき、私は大量の水を飲み込んでしまい、遂に意識を失った。
「……お…………おい…………」
かすかに人の声が聞こえた。
「大丈夫か?」
「ゲホォ、カホォ……ここは?」
気が付くと、私は陸の上で横になっていた。意識を取り戻した私が一番に感じたのは、大地の熱だった。冷え切った体が夏の大地の熱を感じた瞬間、涙が溢れた。生きていることを実感した。遠くに見える太陽を抱きしめたいと思って、手を伸ばした。
「ようやく、救急車が来たぞ」
私の目の前には見知らぬ人がいた。涙で視界がぼやけて、よく顔が見えなかったけど、どうやら男の人であることはその口調からわかった。
「あ、あなたが助けてくれたんですか?」
「まあな。それじゃ、あとは医者に任せるから」
そう言うと、私を助けてくれた人はその場から立ち去った。
「あ、あの!」
私はお礼を言おうと思ったのだけれど、まだ意識がハッキリしなかったし、すぐに救急車の中から救護班の人がやって来て私を運んでしまったので、私は命の恩人にお礼を言えなかった――。
「あぁ、私の命の恩人は、今頃ブラジルかなぁ」
そう、何を隠そう私の命の恩人は、水泳のオリンピック選手だったのだ。
私の命の恩人の名は『久富重吾』。この町出身のオリンピック選手であり、現在の競泳自由形の日本記録保持者でもある。今現在もブラジルで開催されているオリンピックで大活躍中の有名人だ。
私は溺れた後、必死で命の恩人を探した。そこで、私は久富重吾さんが命の恩人であると確信した。だって、あれほどの激流の中、私を助けることができたのは久富重吾さんだけだったから。並の大人ではあの激流の中、溺れている子供を助けるなんて無理だ。でも、日本記録を出せるような超一流の水泳選手であれば話は別だ。あの『龍』の中でも、泳ぎ切ることができたに違いない。
久富さんの存在を知ってから、私はより一層水泳を頑張るようになった。いつか私もオリンピック選手になって、対等な立場になれたら、久富さんにお礼を言おう。そう強く思いながら、私は今日まで生きてきた。
「まずは、全国大会で優勝しないとなぁ。でもなぁ……」
私はそんな小言を呟きながら、北卍の濁流に足を踏み入れた。