第二十八話
私は南卍に来ていた。南卍には何もない。左右には寂れた空き地や公園がぽつんとあるだけ。目の前には雄大な海があり、卍川と繋がっている。
果てしなくどこまでも続いているかのように思えた、長い長い卍川の執着地点。その先には海があり、そんな海の果ては遥か彼方にある。きっと、海の果てには、さらにその先に待っている“何か”の果てが存在しているのだろう。結局、この世界に本当の意味での“果て”なんかないんだ。
私は海を眺めながらそんなことを一人考えた。ウミネコの鳴く声と塩の匂いがする。夏風は緩やかで気持ちが良いし、波も穏やかだ。町のお祭り騒ぎが遠くに感じる。
南卍には海以外何もないけど、私はこの南卍の緩やかな時の流れが好き。自分だけが世界から切り離されたみたいで、少し不安なんだけど心が落ち着く。そんな不思議な感覚になる。
「もしかして、海に行けるのかしら?」
私はふと思いつき、試してみた。しかし、ダメだった。見えない壁が私の行く手を阻んだ。やはり、卍川からは抜け出せないのだ。魔女の魔法に穴はない。
「ざんねん」
私はそう呟いて、しばらく海を眺めてボーっとした。
十分くらいして私は思った。一人でふてくされて、こんなところで何もせずにいたらだめだ。私は変わるんだ。はやくこの川から出て、努力して、夢を叶える。そのために、頑張るって決めたんだ、たくさんのことを知ると決めたんだ。
「戻ろう」
私はウミネコにサヨナラを言って、再び卍側の上流へと向かった。
今はとにかく、川から出るためにすべき最善を見つけだす。そして、川から出て、久冨さんにお礼を言うんだ。何を諦めてふてくされる必要があったんだろうか? 頑張れば、間に合うかもしれないじゃないか。久富さんが再びこの町から去ってしまう前に、川から出られるかもしれないじゃないか!
私は諦めない。このチャンスを、逃さない。
数時間後、私は再び北卍まで戻って来た。時刻はすでにお昼を過ぎていて、太陽が一番高い位置にのぼっていた。暑い。夏だ。
平たい岩の上には河童がいた。まるで考える人のようなポーズで座っていた。
「河童、あんたにお願いがあるの」
「なんだ?」
「私と、もう一度、尻子玉を賭けて勝負して」
私は顔が川面に水没するぐらい頭を下げてお願いした。
「いいだろう」
河童はやけにすんなりと勝負を受けてくれた。
「ルールは前回と同じだ。ここからあそこに見える桟橋まで速く泳いだ方の勝ちだ。いいな?」
「うん」
「よーい、スタート!」
私は大きく息を吸い込み、水に潜った。力を抜いて、川の流れに身を任せる。私の泳ぎは以前と変わっていた。今までは力任せに泳いでいた。今は川の水を切り裂くイメージ。今までの努力があほらしく思える。こんな泳ぎ方がこの世に存在していたなんて。もっとはやくこの泳ぎ方を知ることができていたら……。
私はそんな後悔を吐き出すように息継ぎをして、必死に泳いだ。
渾身の泳ぎ――だったのだけれど、私がゴールをする遥か前に、河童はすでにゴールしていた。圧倒的だった。悔しいけれど、やっぱり完敗だ。
「少しはましな泳ぎになったじゃないか。まだまだ俺には及ばないがな」
「はぁ、はぁ、はぁ……河童、あんたにお願いがあるの」
私は息を整えながら、あることを考えていた。もう、形振りをかまってはいられない。私は目標を達成するために最善を尽くす。そのためには、どんなことでもしてやる。
「なんだ? 尻子玉ならやらんぞ」
「私を弟子にして」
「ん?」
河童はキョトンとした顔をしていた。私の言葉がよほど思慮外だったのだろう。
「私に泳ぎを教えて欲しいの」
我ながらバカなお願いだと思う。泳ぎで勝たなければいけない相手に指導を乞うているのだから。それでも、今の私にはこれが最善だと思う。一生懸命悩んで行き着いた最善だから。
「カパパパ、そんなことを言う人間は、おまえが初めてだよ」
河童はカパパパと笑った。
「ただ、弟子はとらん主義でな」
河童は黄色い嘴をかまいながら言った。
「そこを何とか、お願い!」
私は何度断られても諦めない。どうしたら河童は私のことを弟子にしてくれるだろうか? 考えろ。考えるんだ。
「なんで俺がおまえに泳ぎを教えてやらねばならんのだ」
河童はそう言うとあくびをした。まずい、このままでは河童は弟子にしてくれない。考えろ、考えろ……そうだ!
「あんた、祭りが好きなのよね」
「あぁ、そうだが。それがどうした?」
「あんたが泳ぎを教えてくれたら、私は将来オリンピック選手になって、金メダルを取って、そして、この町に帰って来て、今日みたいにお祭り騒ぎを起こしてあげる。新しく『マコ祭り』を作ってあげる。だから、私を弟子にして! お願い!」
咄嗟に思いついたこと。自分でもバカげていると思うし、これで河童が了承してくれるとは思えなかった。でも、今はこれしか思いつかない。
私は藁にもすがる思いで懇願した。
「おまえが人間の中で“特別”になって、祭りの“特別”な雰囲気を運んで来てくれると言うのか? 金メダルを取って新しい祭りを作ると言うのか? カパパパ、それは面白い」
河童はのけ反るようにカパパパと笑った。
「いいだろう。弟子にしてやる」
「ほんとに! ほんとうに弟子にしてくれるの?」
まさか河童が了承してくれるとは思っていなかったので心底驚いた。思い付きでも言ってみるもんだ。
「あぁ、いいだろう。おまえみたいな面白い人間は初めてだ。よし、早速稽古をつけてやろう」
そう言うと、河童は一呼吸おいてこう言った。
「マコ、河童の川流れ」
河童が呪文を唱えると、突如川の流れが急になった。私は川に流され下流へと追いやられた。
「ちょ、ちょっと! どういうことよ!」
私は下流へ流されないように必死に泳ぎながら河童に向かって叫んだ。
「カパパパ。特訓だよ特訓。この急な流れの中を泳ぐことで、おまえの力が上がるんだ。俺を信じろ」
そう言うと、河童は平たい岩の上で寝転んだ。
「本当なのね? 信じるわよ! 嘘だったら許さないんだからね!」
私は叫びながら必死で泳いだ。もしかしたら、河童はふざけているだけかもしれない。
それでも、私には河童の言う通りがんばるしかない。




