第二十七話
私が住んでいる町は人口一万人ほどの小さな町で、いつも閑散としているが、今日は様相が違っていた。賑わっている。それもそのはず、この町唯一の自慢である“オリンピックメダリスト”が凱旋したのだから。
「ねぇ、久富さんがこの町に来ているんだって!」
「決勝は惜しかったけど、それでも銀メダルだもんね。ほんと、この町の誇りだよね」
川縁の通学路を歩く人々の話題は、久富重吾さんでもちきりだった。川にいる私のことなど見向きもしない。
「久富さんすごいわん!」
「ほんとにゃー!」
これはきっと空耳だろうけど、私には道行く犬や猫たちまでもが久富さんの話をしているように聞こえた。それほど、久富さんの凱旋帰郷は大イベントであり、町は総出のお祭り騒ぎだ。
「マコ、おはよう」
夏晴れの通学時間。カナミがわざわざ天津橋にやって来た。カナミの家から学校へは天津橋を通ると遠回りになってしまうので、カナミは普段通学ではこの道を使わない。
「おはよう。すごいことになっているね。卍川の中からでもみんなの熱気が伝わって来る」
私は少し頬をプクーッと膨らませながら応えた。正直、このお祭り騒ぎに加われないことが悔しくてうらやましくてたまらなかった。
「朝十時、町長にあいさつ。十一時十五分、スポンサーである中波セメント本社で結果報告会。十二時三十分、笹川食堂で昼食」
「ちょ、ちょっと。何それ?」
「え? 久富重吾さんの今日のスケジュールだけども?」
カナミはドヤ顔で答えた。
「なんであんたがそれを知っているのよ」
「ふふふ、私にわからないことはないのよ」
カナミは不気味に笑っていた。
「ちなみに、午後四時にうちの学校に来るわよ、久冨さん」
「え? うそ!」
「ほんとだけど? 演説をしてくれるんだって。テーマは『努力は裏切らない』だそうよ。ありきたりで陳腐なテーマだわ。退屈になりそう」
私は改めて自分の不運を呪った。これはおそらく、一生に一度来るか来ないかのチャンスだ。それなのに、私はこの川から出られない。なんで、今、このタイミングで? 私は強く、下唇を噛んだ。
「マコ、残念だったわね。ずっと久富さんに会いたいって言っていたのにね。全く興味のない私が会えて、ずっと会いたかったあんたが会えないんだもんね。時に世界は理不尽なもの。受け入れなさい、ぷぷぷ」
そう言うと、カナミは学校へと向かった。あのやろう、私の悔しがる顔が見たくてわざわざ川に来やがったな。最後にぷぷぷと笑って行きやがった。許せん。そして、とても悔しい。とても、うらやましい。
「はぁー。ブクブクブク……」
私はため息をつきながら川の中に潜った。
「今日は祭りでもあるのか? 町が騒がしい」
突如、河童が現れた。相変わらず神出鬼没の妖怪だこと。
「もう、急に現れないでよ。心臓に悪い」
「いつどこにいようと俺の勝手だ。ところでなんだこの騒ぎは? まだ、夏の金毘羅さんの日でもないし大花火祭りの日でもないだろう?」
「あんた、やけにこの町の祭りに詳しいのね。よく行くの? お祭り」
「あぁ、俺は祭りが好きなんだ」
「へぇー、意外」
「勝手に決めつけるなと言っただろ人間」
「ごめんごめん」
「変わりない日常がその日だけ特別になるんだ。まるで別世界に来たような感覚になる。普段はあまり交わりのない人間が同じ場所に集い、わいわいと他愛のない会話に更ける。人々の熱気が町を覆い、空へと昇り、入道雲が空でうごめく。そんな非日常の景色が俺は好きだ。そして、祭りの後の静けさも、俺は好きだ」
河童はまるで子供のように目をキラキラと光らせながら祭りの素晴らしさについて語った。
「今日の町の熱気は、祭りのそれとよく似ている」
河童は空を見上げてそう言った。空には入道雲がぐにょぐにょとうごめいている。
「残念、祭りじゃないのよ。久富重吾さんが町に来ているの」
「誰だそれ?」
「オリンピック選手よ。知ってる? オリンピック」
「あぁ、あれか。超人が集まって戦うやつだろ?」
「超人? まぁ、間違ってないけど」
「このまえ漫画喫茶で読んだぞ。来てるのか? キン肉マンがこの町に」
「キン肉マン? ってか、あんた漫画喫茶とか行ってるの?」
「あぁ、よく行くぞ。漫画とは素晴らしいものだな。愉快だ」
河童は「愉快だ」と言いながらカパパパと笑った。河童でも漫画を読むのか。かなり意外だ。
「キン肉マンじゃなくて、人間の水泳選手よ。キン肉マンは実在しないの」
「そうか、それは残念だな。それにしても、ただの人間が来ただけでこれだけ盛り上がれるなんて、人間は不可思議な生き物だな」
私は少しカチンと来た。“ただの人間”という言葉を見逃せなかった。尊敬する人を馬鹿にされて、気持ちの良い人間なんかいるはずがない。河童に悪気がないことは重々理解している。でも、理解しているということと感情の起伏は別物だ。
「久冨さんはただの人間じゃない。超人よ。すごいのよ、あの人の泳ぎはすごく速いの。鍛え上げた肉体も素晴らしいし、顔立ちも端正でかっこいいの。オーラもあるし、人気もある。現にこれだけの人間が浮足立って騒いでいるのよ。これだけの人々を動かせる人のなのよ」
淡々と、気持ちを抑えてしゃべったつもりだった。でも、河童には私の不機嫌さが伝わったらしく、河童も少し不機嫌になった。
「ふん、多少は泳ぐのが速かろうと、河童と比べれば遅いことに変わりはない。俺からすれば、おまえたち人間同士の速さの違いなど、誤差の範囲だ。そんな誤差程度の違いでこんなにもバカ騒ぎできるとは、人間は不可解な生き物だな」
「その誤差を私たちは必死で競っているんだよ!」
自分でもビックリした。それほど大きな声で、私は怒鳴った。言おうと思って口にしたわけじゃない。
これは、勝手に口から出て来た、心の叫びだ。
「す、すまん。失言だった」
私の予想外の叫びに気圧されたのか、河童はたじろぎながら謝った。
「この、糞河童!」
それでも私の腹の虫はおさまらなかったので、私は泳いで河童から離れた。




