第二十五話
夏の晴天。私はカナミを川に呼んだ。
「どうしたの?」
「実は頼みたいことがあって……」
私は知りたかった。河童のこと魔女のこと、ケンタが一生懸命打ち込んでいる陸上について、社会の歴史について……とにかくいろんなことを知りたかった。でも、時間がない。だから、とにかく今はまず、河童について知ろうと思った。他はそれからだ。いつだって私たちは全てを望むけど、現実は優先順位をつけなければ生きていけない。時間がないのだから、選ばなければいけない。だから、今は河童を選ぶ。
「河童についていろいろと調べて来てほしいの。どんな情報でもいいから、お願い」
私は深々と頭を下げて頼んだ。頭を下げすぎて、顔が川の中に埋没した。
「あんたそれ、ふざけているでしょ?」
「ブクブクブクブク」
私は水の中、「これは真剣な気持ちだ」ということを伝えようとした。しかし、水の中ではうまくしゃべれない。
「まあいいわ。調べて来てあげる。でも、これは貸よ。私だって暇じゃないんだからね。あとでちゃんと返してもらうわよ、この恩覚えておきなさい」
そう言うと、カナミは早速図書館へと向かった。
「ありがとう、カナミ。さてと……」
私は河童を探すために東卍へ移動することにした。よくよく思い返してみると、河童は東卍の方へ行っていることが多いと思ったからだ。
ちょっと前までは、河童の行方なんて気にもしていなかった。どうせ追いつけないのだから、河童の行方なんか考えても無駄だと思っていた。でも、それは間違えだった。
私は河童の行方を一生懸命考えるべきだった。
○
東卍への移動は比較的楽だ。北卍と同じく、上流に向かって移動しなければいけないが、北卍に比べて流速が穏やかであり、水温も高いので体力の消耗が少なくて済む。
それに、今日は天気もいいし水もキレイなので、泳いでいてとても気持ち良い。川を泳ぐ魚たちも心なしか元気に見えた。
「うーん、河童はいないか……もう少し先まで行ってみようかな」
東卍に着いてから私はあたりを探してみたが、河童の姿は見当たらない。私はさらに東卍の上流にある森へと進むことにした。
――次の瞬間、突然地面が揺れた。
「なに? 地震?」
数秒後、すぐに揺れはおさまった。
「はぁー、びっくりした」
私はさらに大きな揺れが来るかもしれないと思い、数分間その場でじっとしていたが、もう大丈夫そうだったので、様子を見ながら東卍の先にある森へと向かった。
○
東卍の奥には『温森』と呼ばれる森がある。東卍の水はその温森から流れて来ている。温森のさらに奥の方には『焼山』と呼ばれる活火山があり、昔から温森の近くで温泉が出ていたらしい。だからこの森のことを温森と呼んでいるらしいのだけれど、昔の人はネーミングセンスがないなぁと、子供ながらに思っていたことを思い出す。
「マイナスイオン! 森林浴! 最高!」
温森の中を縦断している川は流れが非常に穏やかで、水位も低く、泳ぐ必要がない。ジャブジャブ歩ける。水も温かく、気持ちが良い。
「うーん、やっぱり河童はいないかぁ」
温森を探索して十数分、河童は見つからない。
「あれ? 分かれ道?」
川の本流に申し訳なさそうに合流している小さな川がある。分かれ道。このまま本流をズブズブと進んでもいいけれど、こっちの細くて小さい川に進んでみようかな。私は気まぐれでそう思った。
バシャバシャズブズブと細い川を進む。夏風がやさしく吹き抜ける。木々がざわめく。青葉の匂いがする。あぁ、夏だ。
「あ!」
私は思わず口を塞ぎ、身をかがめた。なんと、川の奥に半径五メートルくらいの水たまりがあり、そこに河童がいたのだ。どうやら湯浴みをしているようだった。
なんだかここの水は異様に温かい。近くで温泉が湧き出ているのかもしれない。
「カ~パカパ~カパパパ♪」
河童は超ご機嫌。鼻歌を歌っている。
「カ~パカパ~カパパパ♪」
音痴だ。イケメンのくせに、音痴だ。河童のくせに、音痴だ。
「カ~パカパ~カパパパ♪」
ただ、なぜか顔が得意げだ。鼻歌を歌いながら頭の皿をタオルで拭いている。
「あれ? 背中の甲羅は……」
河童の背にあるはずの甲羅がなかった。私は河童の周りを見渡してみた。すると、河童の左奥の方にある木に、甲羅が立て掛けてあった。
“もしかしたら、あの甲羅の中に尻子玉があるかもしれない……”
そんな考えが一瞬頭を過った。目を凝らして甲羅を見る。見た感じ、尻子玉らしき物は見えないが……。
「おい人間。そこで何をしている」
心臓が雑巾を絞った時みたいに縮こまり、そのままトリプルアクセルをして喉から飛び出そうなくらい驚いた。思わず後ろに尻もちをついた。
「イテテテ」
「まったく、迷惑な奴だ。こんなところまでやって来るとは。俺の寝床の岩だけじゃ飽き足らず、湯場まで奪うつもりか?」
「う、うあぁあ」
驚きすぎて言葉が出ない。不意打ちには弱い。
「まあいい。どうだ、涙はもう枯れたのか?」
「え? あぁ、う、うん」
やっぱり、河童は悪い奴ではない。改めてそう思った。
「ふん、ならいい。泣いている人間は、決まって面倒くさいからな」
「な、何よそれ、失礼しちゃうわ。でも、まぁ、ありがとう」
「ん? なんだ?」
「なんでもいいでしょ!」
「人間はよくわからん。まぁ、感謝されて悪い気はせんがな」
河童は穏やかな顔で笑っていた。どうやら今日は機嫌が良いようだ。
「河童はさぁ、どうしてこの町の川に住んでいるの?」
私は、河童についていろいろと知ろうと思う。
「急にどうした人間?」
「いや、別に。ただの世間話よ。せ・け・ん・ば・な・し」
「やっぱり人間はよくわからんな。カパパ」
カパパと笑う河童。この時、私はお互いを「河童」と「人間」という他人行儀な言葉で呼び合うことが気になった。少し前は全然気にならなかったのに。今はすごく気になる。違和感だらけ。相手のことをもっと知りたいという気持ちと、他人行儀な言葉。
その“心”と“言葉”のズレが、胸を淀ませる。
「河童の名……」
河童の名前を知りたいと心の底から思う。でも、名前を簡単に人に教えてはならない。なぜなら、魔女の魔法の餌食になってしまうからだ。河童はそれを知っている。だから、けして名前を教えてはくれないだろう。
「いや、なんでも、ない」
そう思うと、思わず言葉を飲み込んでしまう。今までの私だったら、簡単に口に出していたと思う。「名前を教えなさいよ、このクソカッパ」と言っていたと思う。でも、今これを言ってしまったら、河童に嫌われるかもしれない。そう思うと、臆病になってしまう自分がいた。
考えるということは、時に人を臆病にする。善い可能性だけじゃなくて悪い可能性も考えてしまうから。今までの私は理想だけを追い求めていた。最善しか想定していなかった。すべてが理想通りうまく行く前提で生きていた。だから、怖くなかったし、思ったことは口にできたし、躊躇なく行動できていた。
でも、今は違う。
「おまえはどうしてこの町に住んでいる?」
歯切れの悪い私の言葉を遮るように、河童が質問してきた。
「え? うーんと、親がこの町に住んでいるからだけど」
「俺も同じだ。親がこの町に住んでいたからだ」
「河童にも親がいるんだ」
「いるに決まっているだろ」
「河童だから、急にポン! と生まれて来たとしても不思議じゃないと思ってさ」
「それは偏見だ。人間の勝手な考えで決めつけるな」
「ああ、ごめんごめん。じゃあ、河童の親もこの町のどこかにいるの?」
「…………」
河童は急に黙り込んだ。もしかして、両親はもう死んでいるのだろうか? もしそうなら、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。
「おまえは『龍』を知っているか?」
突然、河童の口から『龍』という言葉が出てきたことに驚いた。それと同時に体が震えた。あの時の恐怖を思い出した。
「うん、知っているよ。七年前、私『龍』に飲み込まれたことがあるの」
「七年前? あぁ、あれか。あれは本当の『龍』じゃない」
「え? どういうこと?」
「あれはいわば『龍のくしゃみ』だ。本当の『龍』はあんなもんじゃない。この町全体が川の水で水没するほどの水撃が襲ってくる、それが『龍』だ」
私は信じられなかった。私が経験したものがくしゃみ程度のものだったなんて。くしゃみでさえあれほど恐ろしかったのに、それ以上の水撃が襲ってくるなんて……。
想像することさえできなかった。
「もう百年近く前になる。今ならなんてことないが、当時俺はまだ子供だったから、流されてしまってな。はぐれたんだ。それ以来、親とは会っていない」
「そっか……さみしく、ないの?」
百年間、両親と離ればなれで過ごしていたなんて、どれだけ辛かったことか。どれだけさみしかったことか。河童の心中を想像するだけで、胸が詰まる。
「さみしくはなかった。これは自然の流れで起きたことだからな。俺達はただ、自然を受け入れるだけだ。父も母も、きっとそう思っていたに違いない。だから、俺は父と母を探さなかったし、父と母も俺を探さなかった」
河童の目線は右斜め上を向いていて、何かを思い出しているような表情だった。
「ただ、時々思い出す。やさしい母の背で寝たこと、逞しい父と遊んだこと。楽しかった思い出は、いつまで経っても忘れないものだな。どうだ人間、おまえの両親はやさしいか?」
「うん、やさしいよ。時々疎ましく思う時もあるけど、いつでも私のことを一番に考えてくれる、大切な存在」
「そうか、それは素敵なことだな」
河童は遠くの入道雲を見ながら、ぽつりと呟いた。
「うん」
私も遠くの入道雲を見ながら、ぽつりと呟いた。
他にも河童に聞きたいことはたくさんあったけど、今はただこうして、同じ入道雲を見ながらボーっとすることが、最善だと感じた。
夏の日がゆっくりと過ぎて行く。




