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第二十話

 “焦り”は時に、思いもしない行動を人に選択させる。そして、それはえてして、悪い結果を招く場合が多い。

 

 ――あれは、中学一年生の全国大会のことだった。準決勝、私はフライングをしてしまった。当時の水泳のルールでは、二回目のフライングで失格となってしまう。当時の私は、自分でもビックリするくらい、焦ってしまった。

 仕切り直しのスタート合図。失格を恐れ、他の選手よりも明らかに出遅れた。出遅れを取り戻すために、私は必死に泳いだ。息継ぎを忘れてしまうくらい、私は必死だった。急に苦しくなった。私は自分が息継ぎをしていなかったことに驚き、急いで息を吸おうと水面に顔を出した。そこで大量の水を吸い込み、私はむせた。むせながらも必死に泳いで、何とかゴールはできた。しかし、結果は最下位。

「マコ、残念だったわね。まぁ、まだ一年生なんだから、来年頑張ればいいわ。そうそう、あんたの勇士、ばっちり写真に収めたからね。あとでみんなに配ろうっと♪」

 母のこの言葉を聞いたとき、私は放心状態で気にも留めていなかった。しかし、これが本当の悲劇を食い止める最後のチャンスだったことを、当時の私は知る由もなかった。

「マコ、おばさんから写真見せてもらったぞ…………ゲハハハ! おまえ、すげぇ不細工な顔で息継ぎしていたな、ぷ、ぷぷぷぷ!」

 笑い転げるケンタを、本気で蹴り殺してやろうと思った。あのときの殺意は――まだ消えていない。

 母が撮った写真には、不細工な顔で息継ぎをする私のドアップの顔が写っていた。そして、その写真はプリント技術の進歩により、何十枚と複製され、何十人という人の手に渡り、さらにはインターネット、携帯端末の普及により、世界中へと拡散された。

 あれは、私史上、最もブスな顔だった――。


 つまりは、焦りというものは、えてして悪い結果を生むということの、もっとも残酷な例を、私はすでに経験済みということだ。ただ、今日の私が経験した焦りは、もっとひどいものだった。

 私は川の轟音と雨の打音に包まれながら、ぼんやりと、そんなことを思った。蒸し暑かった――。


 私は正直、焦っていた。河童から尻子玉をなかなか奪えないことにイライラしていた。久富重吾さんがこの町にやって来ると聞いて、今すぐにでも川から出たい気持ちを抑えきれなかった。美嶋カレンがオリンピックで金メダルを取ったと聞いて、カレンとの差がさらに広がってしまったと思い、すぐにでも川から出て競泳の練習をしたいと思った。時には疎ましいとさえ思っていた、ママやパパに会いたくなった。何千回も往復した、つまらないこの町の景色を、ゆっくりと散歩しながら見たいと思った。

 とにかく、一分一秒でも惜しいと思えた。この限りある青春の時間に、やるべきことを、やりたい。その思いが、私を焦らせた。そして焦りは、人の嫌な所を増幅する。


 ――それは、いつもどおりの雨の日だった。

「マコ、そう落ち込むなよ。そのうち川から出られるからさ。今は焦らず、気長に待とうぜ」

 ケンタのこの言葉が、私の心の嫌な部分を刺激した。私はどんどん、嫌な人間になっていく。

「うるさい。帰れよ。カナミと一緒にお茶でもしてくれば?」

 いつもなら、こんなことは言わなかった。これが、焦りの魔力なのだろうか。

「なんで、ここで高野さんが出てくるんだよ」

「昨日も一緒に“作戦会議”していたんでしょ? いいじゃない。カナミとあんた、お似合いだと思うよ」

「…………おまえにだけは、そんなこと言われたくない」

「はぁ? 何よ、何でよ? 別にいいじゃない。あんたとカナミお似合いだと私は思ったの。思ったことを口に出して、何がいけないのよ」

「おまえは、俺が暇人だと思うか?」

「何よ突然。話を変えないでよ!」

「俺は、おまえが思っているほど暇じゃない。おまえが、水泳に青春の時間を賭けているように、俺だって、短い青春の時間を今、一生懸命生きているんだよ。俺だって、おまえと同じさ。今この青春の真っただ中、無駄なことなんかしたくないんだ」

「ちょっと、私の話を聞きなさいよ! さっきから何言ってんのか、さっぱりわからないわよ」

「俺が今選択し、行動している全てのことは、俺が、俺自身が『無駄じゃない』と強く信じ、決断してきたことなんだよ」

「…………」

「俺が、今こうして、おまえに会いに、わざわざ川まで来ているのも、俺の青春の時間において、無駄じゃないことだと思うから、むしろ、俺の短い青春の時間に、絶対にやっておかなければいけないことだと思ったから! 俺は、今、ここにいるんだよ」

「…………」

 ケンタの口調が、いつもとは違っていた。私は、ケンタが今、何かすごい“覚悟”のもとに、話をしているのだということがわかった。私は、無言のまま、ケンタの話を聞くことしかできなかった。私は、この続きを聞きたくはなかった。

「なんで俺が、なんだかんだ言いながらもマコの言うことを今まで聞いてきたと思う?」

「いくら幼馴染だからって、俺は好きでもない相手に、こんなにやさしくはできないよ」

「マコは、なんでこんなにも俺が自分の言うとこを聞いてくれるのだろうと、疑問に思わなかった?」


「俺は、マコのことがずっと好きだった」


 ケンタはとても理不尽なタイミングで、告白をしてきた。ケンタの告白を聞いて、私はさほど驚かなかった。だって、ケンタが私に特別な感情を抱いていることに、薄々気付いていたから。でも、ずっと気付かない振りをしていた。残念だけど、私の短い青春にとって、ケンタの存在はさほど重要ではなかった。私にとってケンタは、短い青春の時間に限って必要な存在じゃない。青春以外の、もっと長い人生において必要な、そう、家族みたいな人だった。

 でも、ケンタにとっての私は違った。ケンタにとって私は、短い青春の時間にこそ、必要だったんだ。青春が終わる前に、私との仲を、発展させたかったんだ、ケンタは――。

たとえ理不尽なタイミングでも、ケンタにとっては、今しかなかったんだ。

「おい! 逃げるなよ! 卑怯だぞ!」

 私は逃げた。私は私の青春を追い求めるだけで精一杯。ケンタの青春と真正面から向き合う勇気は、私にはなかった。

 だから私は、川の中に逃げた。逃げた。 

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