第十六話
十五分後、ユウイチ君は人間に戻った。そして、溺れた。
「ゲホォゲホォ……またおねいちゃんに助けられちゃったね。ありがとう」
私は急いでユウイチ君を抱きかかえると、岸に上げた。
「おやおや、大変そうだねえ。手伝ってあげようかい? お嬢ちゃん」
まさにデジャブウ。そこには魔女がいた。
「あんた! どっか行きなさいよ。ユウイチ君に何かしたらただじゃ済まさないんだからね!」
私はすぐにユウイチ君を川に引き戻した。
「そうかいそうかい、その少年はユウイチという名前なんだね」
はっ! し、しまったー! この策士め。私のことをハメやがったなぁ。
私は自分の落ち度を何とか無理くり隠ぺいしようと思い、不必要に魔女を睨んだ。
ユウイチ君、悪いのは私じゃないのよ。この魔女なのよ。確かに、聞かれてもいないのにユウイチ君の名前を不用意に口に出してしまったのはこの私よ。でもね、悪いのは魔女なのよ。わかる? 私がミスしたとか、おっちょこちょいだとか、そういうことは善悪とはまったく関係ないことなの。悪いのは私じゃないの、魔女なのよ!
私は心の中で必死に弁明した。
「ケヒヒヒィ、安心しなお嬢ちゃん。その子に魔法を使う気はないから。魔法を使うには対価を支払う必要がある。そうそう頻繁に使えるものじゃないんだよ」
魔女はまるで私の心の中の弁明を聞いていたかのように、不気味に笑っていた。この炎天下の中、黒くて分厚いマントを着ているというのに、魔女は汗一つかいていない。『潤い』を失ったというのは、やっぱり本当のことらしい。汗をかいてもすぐに、深く刻まれた皺がその僅かな水分を吸い取ってしまう――まるで、干上がった砂漠の大地のように。
「ほれ、その子をこちらに寄越しなさい。大丈夫、悪いようにはしないから。ほれ、少し水を飲んでいるのだろう? はやく陸に上げて休ませてあげなさい。ほれほれ」
魔女は「ほれほれ」と何度も言いながらシワシワな両手を伸ばしてきた。
「ゴホォゴホォ」
私は迷ったが、ユウイチ君が軽く咳き込んでいたので、魔女にユウイチ君を託すことにした。
「ユウイチ君に何かしたら、絶対に許さないから」
私は今一度、魔女にしっかりと釘を刺してから、ユウイチ君を渡した。
「キヒヒヒィ、それでいい。自分にできないことは、素直に人に頼むことだ。お嬢ちゃんは今、川から出られないのだからね」
魔女はそう言うと、ユウイチ君を陸に上げ、平らな地面に寝かせた。
「さてと、それではこれからとっておきの魔法を見せて進ぜようぞ!」
魔女は急に張りきった様子になり、声を張り上げ、両腕のマントの裾をまくりあげた。まるで、これから世紀のイリュージョンショーを披露しようとしているマジシャンのようだった。
「こ、こら! 約束と違うじゃないのよ。はやくユウイチ君から離れなさい!」
私は正直焦った。なんだかんだで魔女は良い奴だと思い込んでいた自分をぶっ殺してやりたいとさえ思った。このままでは、ユウイチ君に危害が及んでしまう。私のせいで――。
私は事の重大性を理解し、楽観していた自分を心底憎んだ。愚かな自分を死ぬほど反省した――今更反省したって何の意味もないのに。
「キヒヒヒィ、まあまあお嬢ちゃん。そんなに興奮しなさんな。世紀の大魔法はこれからこれから」
魔女はまるで、私のことをイリュージョンショーが待ちきれなくて騒いでいる客のように扱った。
「や、やめなさい! やめなさいって言っているでしょ!」
私は必死になって川から出ようとした。しかし、やっぱり私の体はツルツル滑ってしまい、川から出ることは叶わない。それならばと思い、私は魔女目掛けて必死に水しぶきを浴びせた。しかし、魔女の体に着いた水分は、魔女の乾いた皮膚と真夏の高温によってすぐに消えてしまう。効果はなかった。
くそ、どうしたら止められる? どうしたらユウイチ君を救えるの?
私が必死に思考を巡らせていると、ふと、河童の姿が思い浮かんだ。そうだ! 河童だ。河童に助けてもらおう。
「河童! 河童どこにいるの。ユウイチ君がピンチなの。助けて」
私は近くに河童がいるだろうと思い、大声で叫んだ。しかし、私の声に応えてくれたのは、ミンミンうるさいクマゼミだけだった。河童の姿は見当たらない。返答もない。
「メケレンポポンチョヘンポロステンチョ」
魔女がついに怪しい呪文を唱えだした。あぁ、もうダメだ。私はまたユウイチ君を危険な目に晒してしまった……。
深い後悔が脳髄を揺さぶる。私はついに気分が悪くなり、眩暈がしてきた。ユウイチ君、ごめん。助けてあげられなくて、ほんとにごめん。
私がついに絶望した瞬間――奇跡は起こった。
「えい!」
「うげっぇ」
なんと、ユウイチ君が魔女のお腹に見事なボディーブローをお見舞いしたのだ。その姿は、昔見た戦隊ヒーローのようで非常にカッチョ良かった。
「おまえ、悪い魔女だな! おねいちゃんを川に閉じ込めたのはおまえだな! おねいちゃんをはやく川から出せ!」
「くっ、そうだよ。わしがこのお嬢ちゃんを川に閉じ込めた悪い魔女だ。グヒヒヒヒィ、おまえも川に閉じ込めてやろうかぁ」
気のせいだろうか? 口から出るセリフとは裏腹に、なんだか魔女は楽しそうだった。そう、まるで、あれは、親戚の子供と遊んでいるおばさんのような、なんだかやさしい眼差しだ。
「えい! やあ! これでどうだぁ!」
ユウイチ君の右ストレート、左フック、ローキックが魔女を襲う。
「ひぃい、痛い! 痛い! やめてくれ、参ったから、やめてくれ~」
魔女はあっさり降参した。
「エッヘン!」
ユウイチ君は両手を腰に当てて鼻を鳴らした。小生意気で偉そうだった。
「くっ、今回は負けを認めるが、これで終わりだと思うなよ。サラバだ!」
目に涙を浮かべながら捨て台詞を言い放ち、魔女は一目散に走り出した。そして、どこかに消えてしまった。
「ユウイチ君、なんともない? 大丈夫?」
私はすぐにユウイチ君の安否を確認した。
「うん、なんともないよ。大丈夫!」
ユウイチ君は笑顔で川縁に駆け寄って来た。
「よかった。本当によかった……」
私は大変安堵し、思わずユウイチ君を抱きしめた。ユウイチ君が無事で本当に良かった。
「おねいちゃん痛いよ」
ユウイチ君は少し嫌そうな態度を見せながらも、ケタケタ笑っていた。
「魔女はいなくなったか?」
突如、水面から河童が出て来た。
「あんた、どこに行っていたのよ。大変だったのよ、ユウイチ君が魔女に捕まって」
「悪い悪い。魔女に見つかると面倒なんでな。ちょっと姿を隠していたんだ」
「何? じゃあ、あんたは私たちのピンチを知っていながら無視したってこと? 信じらんない、この薄情者! この薄情河童!」
私は河童に殴り掛かろうとした。
「マコ、河童の川流れ」
河童が「河童の川流れ」と口にした途端、川の流れが急になった。私は再び下流の方へと流された。
「またかぁ! この野郎」
私は河童に対して怒りの言葉を叫びながら、急流を必死に泳ぎ、再び河童がいるところまで戻って来た。これを世間では「二度手間」と言う。もういっそのこと、「河童の二度手間」ということわざをだれか作ってくれないかしら? この状況をいちいち説明するのが面倒だわ。まったく。
「まあまあ、そう怒るな人間よ。あの魔女とは少しだけ面識があってな。まぁ、無差別に人を襲うような極悪人ではないんだ。あいつは強い信念を持っていて、その信念から外れるような行動はしないはずだ。少なくとも、子供に対して害のある魔法は使わないだろう。いや、今は使えない――と言った方が正しいかな。ま、おまえみたいなガサツで礼儀も知らない女に対しては知らんがな」
「ムキ―! 私は可憐で礼儀正しくて麗しいレディーだっつうの!」
私は河童に殴り掛かったが、河童がユウイチ君の方へと急に振り向いたため、河童の背中が私の方を向いた。そして、私のコブシは河童の甲羅に激突した。痛い! 死ぬほど痛い! 私はすぐに赤く腫れたコブシを川の中に入れて冷やした。
「ところでユウイチ、川で泳ぐのは楽しかったか?」
「うん、楽しかった! ありがとね、河童さん」
「おまえの泳ぎは酷かったからな。あれじゃ、溺れても無理はない」
あれ? 私は河童の言葉に違和感を持った。河童の口ぶりは、以前ににウイチ君の泳ぎを見たことがあるようだった。河童とユウイチ君は知り合いなの? いや、ユウイチ君は河童のことを知らない様子だった。だとしたらなぜ? 私は不思議に思った。
「また、泳ぎたくなったら北卍に来るといい。泳ぎを教えてやろう」
「ほんと! ありがとう」
「ただし、もう一人で泳ぐんじゃないぞ。泳ぎをうまくなりたい気持ちはわからんでもないが、子供はできないことをするもんじゃない」
「はーい」
「じゃ、俺は腹ごしらえでもしてくるかな」
そう言うと、河童はおもむろに川から上がり、「陸に上がった河童」とポツリと呟いた。すると、河童は一瞬で人間の姿に変化した。
頭にあったお皿は禿げ頭に代わり、背中に背負っていた甲羅はリュックサックになった。上にはギンガムチェックの襟付きシャツを着ていて、下にはジーパンを穿いている。靴はスニーカー。一見すれば、オタクにしか見えないファッションだが、顔面だけはイケメンで、そのイケメンフェイスにより、頭頂部のハゲも、ダサいファッションも全て帳消しになっていた。
私は改めて思った――やっぱり男は顔だ。
「ちょ、ちょっと。河童、あんたもしかして、その姿で町に行くつもり? ってか、今までもその格好で出歩いていたの? 人間に化けて?」
「ん? そうだけど?」
衝撃の事実。
まさか、河童が人間に化けて、普通に町を闊歩していたなんて。河童は川や池などの水辺にしかいないという勝手な固定概念を持っていた私は、ちょっとビックリした。というか、そもそも河童なんて現実にはいないと思っていたのだから、驚かない方がおかしいだろう。
「おーい! マコー。おまえ、本当に川に閉じ込められたんだってな。飯塚先輩から聞いたよ。疑って悪かったな」
私が河童の変化に驚いていると、ジャージ姿のケンタが手を振りながらやって来た。どうやら部活帰りらしい。
気が付けば、空にはもう夕日が浮かんでいた。
「それじゃ、あっしはこれで失礼しやす」
河童はやけにヨソヨソしい態度でそう言うと、そそくさと北卍から離れていった。
「…………今の誰?」
ケンタは、頭が剥げていて、格好がオタクで、やけにイケメンな人間(河童)を見て、不思議そうな顔をしていた。
「まぁ、あれよ……ちょっとした知り合いよ」
私は一から説明すると大変ややこしいことになると思い、なんとなく濁した。
「ふーん。格好はダサかったけど、顔はイケメンだったな、あの人。おまえ、ああいう顔タイプだろ?」
「な、ちょ、ちょっと、バカなこと言わないでよ!」
「隠すな隠すな。何年おまえの幼馴染やっていると思ってんだよ。マコは昔から、やさしい系のイケメンよりも、少しキツイ印象のイケメンの方が好きだったもんな。芸能人で言えば、妻夫木よりも仲村トオル、だろ?」
「くぅ……」
流石は私の幼馴染。悔しいけど、ズバリ正解だ。全く反論ができない。妻夫木よりも仲村トオルだし、千葉雄大より竹野内豊の方が好きだ。つまりは、可愛い系のイケメンよりも、カッコイイ系のイケメンの方が好きなのだ。
「……俺みたいなイケメンよりも、さっきの人みたいな、キリッとした顔立ちのイケメンの方が、好きなんだろ?」
「ふん、あんたはイケメンじゃないでしょ」
これは嘘だ。悔しいけれど、ケンタはどちらかと言えばイケメンの部類に入ってしまう顔の造形をしている。ジャニーズ事務所の書類審査くらいは簡単に通過できるだろう。髪は不自然な無造作ヘアーが不自然なくらい似合っている。スポーツをやっているだけあって肉体は引き締まっているし、身長も高い。顔は小顔で、眉毛が太い。目尻は垂れているし、鼻は低いが、各パーツの配置バランスが良いため、顔にクセがない。顔全体の印象は、やさしそうで幼い。
まとめると、ケンタはかわいい系のイケメンなのだ。昔はお猿さんみたいな顔をしていたのに、まったく、成長とは恐ろしいものだわ。
「はいはい。ところでマコ、オリンピックの結果は聞いたか?」
「え、全然聞いてない。どうだったの?」
そういえば完全に忘れていた。昨日はブラジルオリンピックの水泳決勝の日だった。久富重吾さんはメダルを取れたのだろうか? すごく気になった。
「いやーすごかったな。まさか金メダルを取っちゃうなんてな。テレビの前であんなに興奮したのは、久しぶりだったな~。思わず手に汗握っちゃったよ」
「すごい! すごすぎるぅ! 久富さん、金メダル取ったのね」
久富重吾さんが金メダルを取ったということに、私は凄く興奮した。大いに取り乱し、バシャバシャと水しぶきを上げた。
「ん? 久富さんじゃないぞ、金メダルを取ったのは」
「え? どういうこと?」
「金メダルを取ったのは、『美嶋カレン』だぞ」
それは、私が一番聞きたくない名前だった。
美嶋カレンは、私の最大のライバルであり、世間で『人魚姫』ともてはやされている、日本水泳界期待のホープだ。年は私と同じ十七歳。悔しいけど顔は美形で、スタイルもいい。体の線が細く、全体的に華奢で、肩幅もそれほど広くない。どう見ても水泳選手向きの体型ではないのだけれど、その泳ぎは恐ろしく速い。理論が全く通用しないのに、速い。そういう人間のことを“天才”というのだと、私は思い知らされた。
幼い頃から私は泳ぎに関して敵なしだった。地区大会でも、県大会でも、全国大会でも、私はいつも一番だった。少なくとも、同学年の人間に負けたことがなかった。でも、私は高校一年生の時に、初めて敗北を味わった。その敗北の相手こそが、人魚姫こと、美嶋カレンだった。
「カレンが……金メダル……」
私は茫然としてしまった。カレンは私よりも先にオリンピックに出場し、しかも、そこで金メダルを取ってしまった。カレンと私との差が、もう埋めることが不可能なくらいに広がってしまったと感じた。カレンはもう、『日本一の高校生』ではなく、『世界一の競泳選手』になってしまったのだから。
そう思うと、絶望的な敗北が私の両肩に重くのしかかった。それと同時に、私は今のこの状況が歯がゆくて歯がゆくて仕方がなくなった。川に閉じ込められているこの現状を呪った。私は少しでも練習をしなければいけないのに、こんなところでじっとしている暇なんてないのに……。
――ハッキリ言える。私の人生において、今この瞬間が一番貴重だということ。
今の一日は、老後の十年に相当する。そう思えるほど、今が私の人生にとって一番、頑張らなければいけない瞬間なの! 今頑張れば、私の人生はきっとうまく行くし、今頑張らなければ、私は一生後悔することになるだろう。それなのに、それなのに……なんで私は川に閉じ込められているの? 私の貴重な青春の時間を、なんで川の中で浪費しなければいけないの?
私は改めて、自分の身に降りかかった“理不尽”を悲観した。
「ちなみに、久富さんは銀メダルだったよ。惜しかったな~」
しかも、カレンは私の憧れの人である久富さんよりも価値ある色のメダルを取った。高校生のガキンチョの分際で――。
オリンピックの舞台に立つことさえできなかった私に、何も言う資格はないのは分かっているけれど、悔しい。すごく悔しい。悔しさで腸が煮えくり返りそうだわ。
「それで、三日後に、久富さんがこの町に銀メダル獲得報告のために凱旋するんだって」
「え! ほ、ほんとうに?」
私は、会いたくて会いたくて夢焦がれていた久富重吾さんがこの町に来てくれるということに、心底興奮した。もしかしたら、直接会ってお礼を言えるかもしれない。本当は、私もオリンピック選手になって、同じ舞台でお礼を言いたかったけれど、この際仕方ない。自分の実力が足りないのがいけないんだから、プライドや理想なんか捨ててしまおう。とにかく、久富重吾さんに会いたい。「会いたい」という気持ちは、他のどんな感情よりもすんごく強いのよ――でも、私は川から出られない。どうにかして、三日以内に河童から尻子玉を奪わなければ……。
私はこの時初めて、真剣に焦りというものを感じた。ちょっと前までは、なんとなく気長に構えていた自分がいた。でも、今は違う。とにかく急いで、河童から尻子玉を奪わなければ。私には、川から出てやりたいことが、やらなければならないことが山ほどあるの。青春は待っちゃあくれないのよ!
「ケンタ! ちょっとお使い頼まれてくれる?」
「なんだよ、藪から棒に。まぁ、本当に川から出られないんだもんな。食べ物くらいなら運んでやるぞ」
「それじゃ、キュウリを買ってきて。できるだけたくさんね」
私は思いつく限りの作戦を実行することを決めた。まずは、『キュウリ作戦』からよ!
私は尻子玉奪取に意欲を燃やした。




