第十四話
「先輩!」
私は必死になって泳いだ。まさか、私のせいで、私のせいで……。
絶望と呼べるような負の感情が心に充満して、私は今にも押しつぶされそうだった。先輩にとって、水泳は全てだった。大会に出ることが先輩の夢そのものだった。それを失った今、先輩は……。
お願い、お願いだから、先輩死なないで!
「先輩、先輩!」
私はプカプカと浮いている先輩を抱きかかえた。
「……先輩」
「マコ!」
突如、先輩は水面から顔を上げた。良かった! 生きていた、生きていたんだ。私はあまりの嬉しさに先輩を抱きしめようとした。
「マコのおかげよ! マコのおかげで!」
しかし、逆に先輩に抱きしめられた。骨が折れるかもしれないと思うほど強く、抱きしめられた。よく見ると、先輩は泣いていた。ブサイクな顔だった。
「ど、どうしたんですか先輩?」
「マコのおかげで、私も、地区大会に出られることになったのよ! ほんとうにありがとう! マコ、愛しているわ!」
「先輩、汚いです、汚いですってば!」
先輩は涙や鼻水まみれの汚い顔を私の顔に近づけて来た。私はとにかく先輩をなだめて、事情を伺うことにした。
○
先輩をなだめるのに十分以上かかった。よほど興奮していたらしく、先輩の鼻息は闘牛のように荒かった。
「実はね、マコが昨年全国大会で二位になったでしょ? それでね、日本高校水泳連盟がね、うちの高校の出場枠を増やしてくれたのよ! でねでね、私も大会に出られるようになったのよ! ほんと夢みたい。私の三年間の努力はやっぱり間違っていなかったのよ! うれしい、私すごくうれしいのよ! そんな気持ちで橋の上を歩いていたら、マコがいるのが見えて、思わず飛び込んじゃった!」
「先輩、だからって、飛び降りないで下さいよ。私てっきり先輩が投身自殺したと思って、ビックリしたんですからね。心臓飛び出るかと思いましたよ」
「私が自殺? なんで? マコ、あんた面白いこと言うわね」
先輩はまるで少女のように天真爛漫な顔でケラケラ笑っていた。
改めて思う、夢ってすごい。
先輩にとって、大会に参加することは夢そのものだった。つまり今、先輩は夢を叶えたのだ。夢というのは、一人の人間をこれほどまでに笑顔にできる力を持っている。それはとてもすごいことだし、とんでもなく素晴らしいことだ。
“先輩、良かったですね”
私は声に出さなかったけれど、心の中でそう思った。
○
「それじゃ、またね。マコも大会までに川から出て来なさいよ。次は大会で勝負しましょう」
数分後、だいぶ落ち着いた先輩はずぶ濡れのまま帰って行った。その足取りは軽やかで、時々スキップや謎のステップを織り交ぜていて、ウキウキしているのが後姿でもわかるほどだった。
「先輩、ほんとうに良かったですね」
私は先輩の後姿をいつまでも見送った。先輩の後姿が見えなくなるまで、見送った。
「おい人間」
先輩の姿が見えなくなった瞬間、声をかけられた。この声は河童だ。
「河童! あんた尻子玉……」
「尻子玉はやらんと言っただろう」
「うぅ」
河童はそう言うと、スイスイっと平たい岩に向かって泳ぎだした。私は逃がしてなるものかと思い、河童を追いかけようとした。そのとき、河童がふいに振り返った。
「さっきの泳ぎは、前の泳ぎよりも良かったぞ。ほんの少しだけ、だがな」
まさか河童に泳ぎを褒められるとは思っていなかったので、不意打ちを食らった感じになり、私は思わず泳ぐのをやめた。
さっきの泳ぎ……あんまり覚えてない。先輩を助けたくて必死だったから。でも、良かったんだ。あの泳ぎが。あの泳ぎができるように、もう一度、あの泳ぎを……。
先輩を助けに行った時の泳ぎを自分のものにできれば、私はもっと速くなれる。私はまだまだ成長できる可能性がある。そう思うとうれしくなった。
正直言うと、ここ最近私の成長は止まっていた。いくら練習しても、タイムがまったく伸びていなかったのだ。努力をしても結果が伴わなければ、人は焦るし、心はくすぶるものだ。
――もしかして、私の限界はここまでなのかもしれない。
そんな恐ろしい考えが毎日頭から離れなかった。でも、今は違う。私はもっと速く泳げるんだ。その可能性があるんだ。それを、自分以外の誰かが、自分よりも速い河童が――認めてくれた。
「ねぇ、河童。ありがとう」
ふいに出た感謝の言葉。この言葉を言った私自身驚いた。言葉は時に、意識を追い越して、勝手に口から出てくる。
「ん?」
今度は河童が不意打ちを食らったような顔になった。私から「ありがとう」と言われるなんて、想定していなかったのだろう。
「河童、あんた名前はなんて言うの?」
私はどさくさに紛れて河童に名前を聞いた。
「その手にはのらん、帰れ人間」
河童はそう言うと、バタ足で大きな水しぶきを上げて泳ぎだした。
「きゃ! ゴホォゴホォ」
まるで津波のように強大な水しぶきを浴びて、私は思わず咳き込んだ。河童の泳ぎの速さは、あの強靭な脚力の賜物なのだろう。
私は咳き込みながらそんなことを思った。