第十二話
数分後、誰かがやって来た。私はママがやって来たものだと思い、振り返った。
「お嬢ちゃん、元気そうだね。河童には会えたのかい?」
そこには、魔女がいた。魔女は苦しそうに咳をしながら笑っていた。年寄りだから、気管支が弱いのだろうか。それに、相変わらず黒いローブを着て、フードまでかぶっている。暑くないのだろうか。
「魔女この野郎! はやく私を川から出しなさいよ」
「尻子玉をまだ手に入れてないのだろう? それじゃダメだ」
魔女はニタニタと笑っている。
「あんた、河童から話を聞いたわよ。私の名前を使って私に魔法をかけたんでしょ? ズルいわ。卑怯よ!」
「ケヒヒヒィ。その通り。お嬢ちゃんがおバカさんで助かったよ。ありがとね」
「ムキ―! バカにすんなよこのババア!」
私は蹴飛ばすように川の水を魔女目掛けて放った。次の瞬間、私は目を疑った。魔女の皮膚に着いた水滴が、一瞬にして消えたのだ。
「え? えええ? な、なに? 今のも魔法?」
驚く私に対して、魔女はさっきまでとは違う、少し真面目な顔で答えた。
「これは、魔法の対価だよ」
対価? 私は全く意味がわからなかった。
「魔法を使うためには、魔法をかける相手の名前、それと、その魔法と等価な何かを支払う必要が――いや、等価な何かを“失う”必要があるんだよ。お嬢ちゃん、私の年齢、いくつだと思う?」
魔女は唐突に質問してきた。見た感じ、九十は超えていると思った。声はガラガラだし、手足は肉が全然なくて骨と皮だけに見える。それに、顔には皺がたくさんあった。
「九十歳、くらい?」
「ハズレ……いや、正解だ」
魔女は曖昧に答えた。
「何? どっちなのよ」
私はおちょくられた気がして、イライラした。
「私は今、九十歳だ。それで間違いない」
魔女はゴホゴホと咳き込んだ。その咳は、『死』を連想させるほどに、つらそうな咳だった。
「だ、大丈夫?」
さすがに心配になり、私は訊ねた――訊ねることしかできなかった。川から出ることができたなら、背中くらいさすってやるのに。
「大丈夫、心配はいらないよ。これも、対価の一つだからね。私が望んで受け入れたものだ」
「その咳が、魔法の対価ってこと?」
「そうだ。私はね、望みを叶えるために必要な、幾つかの“素材”を集めているんだ。そのうちの一つが尻子玉でもあるんだけどねぇ」
魔女は「よっこらせ」と言いながら、その場に座った。
「私は十年をかけて、『素材』を集めてきた。その過程で、いろんなものを失った。深海に生きるチョウチンアンコウの『闇を照らすチョウチン』を手に入れるために、肺の機能のほとんどを失って、激しい運動はできなくなった。サバンナに生息する『ライオンのため息』を手に入れるために味覚を失って、食べる喜びを忘れた。『腐った黄金』を手に入れるために皮膚の機能を失い、常にローブで肌を隠さなければならなくなった。『砂漠に咲く薔薇』を手に入れるために、潤いを失って、渇きを受け入れた」
魔女はまるで、ファンタジー小説のようなことを言う。
ライオンのため息? 腐った黄金? 砂漠に咲く薔薇? そんなものを手に入れるために味覚や皮膚の機能や潤いを失った? 現実味がない。とても信じられる話しではない――ただ、魔女はとても真剣な顔をしている。その顔は、とても嘘をついているようには見えない。それに、私は現に魔法にかけられて、川から出られなくなっている。魔法は存在すると、認めざるを得ない状況にいることも確かだった。
私は何を信じていいのかわからなかったから、半信半疑で話しを聞いていた。
「だから、私は常に渇いているんだ。だから、私に水滴をぶつけても意味はない」
魔女はため息をつき、遠くの空を眺める。
「私は、失えるものはすべて、失った。それでもまだ――望みは叶わない」
さみしげな魔女の表情を見て、私は思った――『肺の機能』や『味覚』や『潤い』を失ってまで叶えたい魔女の望みとはいったい何だろう?
少し気になった。
「ねえ、魔女の望みって……」
私が魔女に質問しようとしたのを遮るように、魔女は言葉を発した。
「ちなみにお嬢ちゃんを川に閉じ込める魔法の対価は“一日”だったぞ」
「一日?」
「そう、一日。お嬢ちゃんを川に閉じ込めた後、私は丸一日眠っていた。それはつまり、一日という時間を対価として支払ったということだ」
はぁ?
私は頭にきた。これだけ大変な思いをさせられたというのに、その対価がたった一日だなんて。私にとって、高校生の今この瞬間がどれだけ大事かわかってんの? 今この時期の一日と、老後の一日じゃあ価値が違うのよ。今しかないこの貴重な時間を奪っておいて、その対価が老婆の一日? ふざけんじゃないわよ! 青春時代の時間はねぇ、一億円でも足りないくらい貴重なのよ。クソババアである魔女の一日と同じにしないでよ!
私は青春時代の時間の価値をまったく分かっていない魔女に腹がたった。
「ふざけんじゃないわよ。私にとって、今この瞬間がどれだけ大事だと思ってんのよ。若いころの時間はとても貴重なのよ。私の一日は、あんたの一年、いや、十年ほどの価値があるのよ! このクソババア!」
「キヒヒヒィ。それはお嬢ちゃんが勝手に決めた“自己満足の価値”だろうが。俯瞰的、大局的に見れば、お嬢ちゃんの青春時代なぞ、対して価値はないんだよ」
はぁ?
私はブチ切れた。近くにあった小さい石を掴み、魔女目掛けて投げようとした。あの無駄に高い鼻をへし折ってやる。
「マコ! 何やっているの!」
突如、怒鳴られた。声のする方を向くと、そこにはママがいた。
「おばあさん大丈夫ですか? マコ! その手に持っている石は何! まさか人様に向かって石を投げるつもりだったの? ママはあなたをそんなふうに育てた覚えはありませんよ!」
ママは普段はおっとりしていてやさしいが、怒ると怖い。般若みたいな顔になる。私は仕方なく、手に持っていた石を放した。
川の水がちゃぽんと音を立てる。
「ママ、そのババアに魔法をかけられたせいで、私、川に閉じ込められたの。そのババアに魔法を解くように言ってよ」
「マコ! ババアとは何よババアとは。そんな汚い言葉を使うんじゃないの。ほら、謝りなさい。ほんとすいませんね。うちの子悪い子じゃないんですけど、まだまだ幼くて言葉も汚いもので」
ママは魔女に向かってペコペコ頭を下げていた。外面の良い、大人の対応だ。なんかムカつく。
「ケヒヒヒィ。いえいえ、最近は行儀の良すぎる子が多いですから、若い者はこれぐらい血気盛な方がいいですよ。ところでお母さん、お名前は何と言うんですか?」
マズイ! 魔女はママにも魔法をかける気だ。私は心底焦った。
「ママ! ダメ! 名前を教えちゃだめよ!」
「あぁ、そうですね。失礼致しました。まず名乗るべきでしたね。わたくし香坂マコの母親の、香坂み」
「あああああああああああああああ!」
私はママの言葉を遮るように大声を出した。私にできることは声を出すことだけだ。川から出ることができたのなら――魔女の前に立ちはだかってママを守ることができるのに。
「マコ、うるさいわよ!」
ママは般若の顔でこちらを睨んできた。怖い。私は反射的に黙った。
「あれ? おばあさんは?」
気が付くと、魔女はいなくなっていた。
「ケヒヒヒィ」
姿は見えないが、どこからか魔女の声が聞こえた。
「お嬢ちゃん、一つ条件を増やしてやろう。尻子玉を奪ってくるのが無理なら、河童の名前を聞いてきな。河童の名前か尻子玉を持ってきたら川から出してやろう。それじゃ、またな。今日はちぃっと、おしゃべりがすぎてしまったからねぇ」
魔女の気味の悪い笑い声がいつまでも耳に残って離れなかった。