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第十一話

 翌日、改めて河童の泳ぎを見た。とんでもなく速かった。川の水が河童のために道を開けているのではないかと思えるほど、河童は軽やかに川波を滑っていた。そんな河童の泳ぎを見て、私は敗北をハッキリと認めた。私なんか、河童の泳ぎと比べたらまだまだだった。足元にも及ばない。

「おまえの泳ぎは汚い」

 河童はあきらかに私をバカにしていた。しかし、私は何も言い返すことができなかった。私は自分の泳ぎを客観的に見たことがないけれど、これだけはわかる。

“河童の泳ぎは美しい”

そして、私の泳ぎは河童に比べたら、きっと醜いのだろう。そう思うと、とても反論などできなかった。

「この大自然に比べたら、おまえなどちっぽけな存在だ。だから、無駄な抵抗はやめな。見苦しいぞ」

「う、うるせぇ! 尻子玉よこせ、この糞河童!」

 そう言って強がるのが、精一杯だった。

「尻子玉はやらん。それに、この岩場は俺の寝床だ。勝手に使うなよ、いいな?」

「あ、あちょっと!」

 河童はそう言うと、スイスイと泳いで東卍の方へと消えていった。私は追いかけようと思ったが、河童があまりにも速かったのですぐに見失ってしまった。

「はぁー。とりあえず、今日は尻子玉を諦めよう」

 私はとりあえず、河童を追うのを諦めた。一刻もはやく尻子玉を手に入れたいけれど、その前にやっておかなければいけないこともたくさんある。

それに、河童に追いつくのは到底無理だ。無理なことはやっても無駄だ。無駄なことをしている暇があったら、今できる最善を尽くす。私は今までずっと、そうやって生きて来た。今するべき最善は、闇雲に河童を追うことじゃない。体制を整えることだ。

「とりあえず、ママと連絡を取らないと。きっと心配しているだろうなぁ」

 結局、私は昨晩家に帰れなかった。連絡のない状態で高校生の娘が帰って来なければ、どんな親でも心配するだろう。もしかしたら、警察に捜索願を出しているかもしれない。

「ぐぅー」

 突如、お腹が鳴った。そう言えば、昨日から何も食べていない。オナカスイタ。

『食料の確保』、『外界との連絡手段』、『尻子玉の奪取』……問題は山積みだ。

「とりあえず、西卍に行ってみよう。もしかしたらママが河川敷を歩いているかもしれない」

私は自分の家がある西卍へと向かうことにした。


 西卍には、まるで『ハウルの動く城』みたいに大きな工場がある。詳しくは知らないけれど、北卍の奥にある弁天山で採れる石灰を加工している工場らしく、長い煙突からは常に白い煙をモクモクと発している――今にも動き出しそう。

 その工場は『中波セメント』という名前で、この町一番の工業会社だ。社員の八割が地元の人間で、新井高校のOBも多数働いている。そのため、職場体験で新井高校の生徒は必ずこの中波セメントに行かされる。かくいう私も、高校一年生の時に職場体験で中波セメントに行ったことがある――。


 当時、職場体験を終えた私は、中波セメントに対して良い印象を持たなかった。まるで神話に出てくる巨獣のようなファンタジーチックな見た目とは裏腹に、建物の中は薄暗く、こぢんまりとしていて、いささか興ざめしたのを今でも覚えている。

 さらに、工場見学の途中に排水処理場を見たのだけれど、そこから出ている水は白く濁っていて、こんなに汚い水が川に流されているのかと思うと、怒りにも似た感情が沸々と湧き上がった。

「西卍の川が汚れているのは、おまえらの仕業か」

 私は心の中でそう叫んだ。

 確かに、中波セメントはこの町の産業の中心であり、多くの税金を払っているため、この町にとってとても重要な工場であることは理解していた。現に、私がこの町の病院や図書館を何不自由なく利用できているのも、中波セメントのおかげなのでしょう。それでも、昔から川で泳ぐのが好きだった私は、川を汚すこの工場に対して非常に不快な気持ちを抱いていた。いっそのことなくなればいいのにとさえ思っていた――職員の次の言葉を聞くまでは。

「実は、私たちはこの町出身のオリンピック選手である久富重吾さんのスポンサーをしているんですよ」

 私の憧れの人である久富重吾さんのスポンサー会社がなくなるのは、正直困る。川を汚されるのは嫌だけど、久富重吾さんのスポンサーがいなくなるのも嫌だ。揺れる乙女心とは、まさにこのことだと思った。

 嫌なモノの裏には好きなモノがあって、きれいなモノの裏には汚いモノがある。好きなモノ、きれいなモノだけに囲まれて生きるなんてことは、あまりに都合の良すぎる夢物語なのだと、私はこの時悟った。自分の好きなモノを勝ち取るためには、きれい事ばかりだけではダメだ。醜いことや悪いことに目をつむり、黙認することも、時には必要なんだ。

 私はこんな気持ちを工場見学の感想文に書こうと思ったけど、うまくまとめられなかったので、「工場パネェ」と非常に抽象的な言葉で作文を締めくくり、国語の先生にこっぴどく怒られた――。


「うぅ、なんだか西卍の水はヌメヌメしていて気持ちが悪いわ」

 北卍から泳いで一時間くらいかかっただろうか? 私は西卍にやって来た。

 西卍は傾斜がほぼないため、流速はとても穏やかだ。しかし、水の透明度は悪く、また、触感もヌメヌメしていて非常に気持ちが悪い。中波セメントから排出される汚水には謎の栄養素が含まれているらしく、水草の発育が異常に良い。そのため、川岸には気味の悪い水草が個性豊かに生え散らかっている。また、西卍の水深はとても浅く、私の膝くらいまでしかないので、私はもはや川を泳いでいない。川をザバザバと歩いている。

「あれ? マコじゃん。そんな所で何やってんの? 服ビショビショじゃん。どしたの?」

「ケンタ!」

 これは幸運。私は理不尽でかわいそうな人間だと思っていたけれど、まだまだ神様は私を見離していなかったみたい。

「こっちこっち。ケンタちょっとこっち来て」

 私はたまたま西卍の河川敷を歩いていた幼馴染の『速水ケンタ』に声をかけた。

「なんだよー。俺これから部活なんだけど」

「いいから来なさいよ」

「あいあい、わかったよ」

 ケンタは渋々、川縁までやって来た。

「実はね……」

 私はケンタに事情を説明した――。


「はぁ? 魔女? 河童? 川に閉じ込められた? 何それ? おまえさぁ、いつも俺のことおちょくって来るけどさ、これはやりすぎじゃない? さすがの俺でもあきれたぞ」

 ケンタは「やれやれだぜ」という顔で溜息をついた。ケンタは私の話を全く信用しなかった。無理もない。私だってこんな話を聞いたら「バカにしてんの?」と言ってキレていると思う。

 だがしかし、私が話している相手は臆病でマヌケな幼馴染の速水ケンタなのだ。ケンタが私の話を信じないというのは、それだけで心底ムカつく。たとえケンタが正しいことを言っていたとしても、そんなことは関係ない。理由なんてないけど、とにかくケンタの態度が気にくわないのだ。

 ケンタのくせに、私の話に対して「あきれた」ですって? ふざけんじゃないわよ。

「あぁーもういいもういい! あんたが私の話を信じるとか信じないとかそんなことはどうでもいいから、とにかく食べ物を持ってきて頂戴。なんでもいいから。ほれ、はやくはやく」

「なんだよ。藪から棒に」

「はやくしろって言ってんでしょ!」

 私はケンタの不満そうな態度に嫌気がさし、少し強めに怒鳴った。

「ちっ。わかったよ。ちょっと待ってろ。何か食い物買って来るから」

 ケンタは渋々了承し、私に献上するための食い物を探しに行った。

 ――おいケンタ、おまえさっき舌打ちしただろ。覚えてろよ。

 私はそんなことを考えながら、近くの平らな岩場に腰を下ろした。本日の空は晴天で、セミの鳴き声が群雄割拠の賑わいを見せていた。陽炎が立ち上る、暑い夏の日だった。


「おーい。お待たせ」

 数分後、ようやくケンタが戻って来た。その手には、白いビニール袋がぶら下がっていた。

「ほれ、アンパンとフルーツ牛乳買ってきてやったぞ」

 私には苦手なものが三つある。

 一つはゴキブリ。あのツヤツヤとした漆黒の外装、ひょこっとした気味の悪い触覚、そしてなによりあのしぶとさ。全部が嫌いだ。

 二つ目はアンパンだ。甘いもの自体あまり好きじゃない。中でもアンパンは最悪だ。あの重苦しい甘さがどうにもこうにも好きになれない。

 そして三つ目は、気の利かない男だ。私は気の利かない男が苦手を通り越して大嫌いなのだ。

「あんた、あたしがアンパン嫌いなの知ってんでしょ? 死ねバカハゲ!」

「俺まだハゲてねーし。せっかく買って来てやったのにさ。ふざけんなよ。俺もう帰るぞ」

「ちょっとマテ。今はとにかく腹が減っているの。この際、アンパンでも何でもいいから食べたいのよ。ほれ、はやくそのフクロをよこしなさい」

 私はそう言うと、鎌で草を刈り取るようにケンタの手からビニール袋を奪った。

「おい、乱暴すんなよなー。ったく」

 ケンタは大いにふてくされた様子だったが、私はまったく気にしない。もうお腹がぺこぺこなの。

 私は一心不乱にアンパンに噛り付き、それをフルーツ牛乳で喉の奥に流し込んだ。丸一日の飢餓状態により糖分の枯渇していた脳みそに、質の悪い糖分が勢い良く流入する。糖エネルギーを得た私の脳は一気に目覚め、フル活動を始めた。

「あぁ~! 魔女の野郎ムカツク! 河童の野郎ムカツク! ケンタムカツク!」

 糖分を得た私の脳は、昨日から今日までの出来事を走馬燈のように一気に思い出し、怒りでいっぱいになった。あぁ、ほんとに理不尽なことばかりだわ!

「おいおい、アンパン買って来てやったのに、ムカツクってどういうことだよ。ほんとに怒るぞ」

 ケンタはぷんぷんしていた。

「ケンタ、お母さん呼んで来てもらえる? あと、天津橋に私のカバンがあるはずだから、それ持って来て」

 私は溺れていた少年を助けた時、手に持っていたカバンを天津橋に置いてきた。その中には携帯電話が入っている。ありがたいことに防水機能付きだ。川から出られない以上、携帯がないと川の外にいる人との連絡が不便でしょうがない。

「だから、俺これから部活なんだってば。勘弁してくれよ。遅刻しちまうよ」

「うるさい黙れ。あんたは私の言うことに黙って従えばいいのよ。あんたが中学生になってもお漏らししていたこと、みんなにばらすわよ」

「……はぁ。わかったわかった。おばさん呼んでくるから、ちょっと待ってな。あとカバンだっけ? それも持ってくるから」

 ケンタはいつだってグチグチ言いながら、最終的には私の命令に従ってくれる。いつも思う――どうせ従うなら、最初からグチグチ言うなよ、この野郎。

「はやくしなさいよ。陸上部の俊足をここで活かしなさい」

「はいはい。それじゃあな」

 そう言うと、ケンタは軽やかに走り出し、西卍を後にした。

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