第十話
「おまえが勝ったら、尻子玉をくれてやろう。何ならハンデをやってもいいぞ。どうする?」
「ハンデなんかいらないわよ! 尻子玉はいただくわ」
「それでは、勝負はこの岩からあそこに見える桟橋まで速く泳いだ方の勝ち、ということでどうだ?」
「望むところよ」
偶然にも、私はづかちょん先輩と勝負したのと同じコースで河童と勝負することになった。私はこの時、まったく負ける気がしていなかった。いくら泳ぎが得意とされている河童が相手でも、物心ついた時から今まで休む間もなく、死ぬほど努力してきた私の泳ぎが通用しないはずがない。
「準備はいいか? それでは始めるぞ。位置について、よーい、スタート」
河童の合図とともに、私は川の流れに乗り、天津橋を目指して泳いだ。夏夜にうごめく清流を滑るように、私はグングン加速した。
――会心の泳ぎだ。
私は息継ぎしながらそう思った。ダイナミックな体の動きとは裏腹に、心はやけに落ち着いていた。息継ぎの時、周りの景色をハッキリと認識できたし、熱帯夜に泣く虫の鳴き声と川の轟音がやけに遠く、静かに聞こえた。
つまりは、私はこの上なく集中していたのだ。いつもそう、泳ぎに集中できているときは、息継ぎの時に周りの景色がスローに見えるし、周囲の雑音も、まるで雪の中に顔をうずめた時のように遠くに聞こえる。今まさにその状態。
私はこの時、まだ勝負の途中だというのに、どこかで自分の勝利を確信していた。
気が付くと、私は天津橋の下まで来ていた。目の前には誰もいない。私が後ろを振り返ると……そこにも誰もいなかった。
あれ? 河童は? 私はあたりをキョロキョロ見渡した。しかし、河童の姿は見当たらない。
「遅いぞ。待ちくたびれた」
私は声のする方を見上げた。すると、天津橋の上に河童がいた。河童の遥か向こう側には月が見えた。今日は満月だった。
「え? ええ? ど、どういうこと?」
私は現状を理解できずにいた。なぜ、先ほどまで一緒に泳いでいた河童が天津橋の上にいるの? これは魔法? 私は不思議でしょうがなかった。だって、川から出て天津橋の上に行くには、結構な時間がかかるんだもの。
天津橋の橋脚は五メートル近くあるし、天津橋の上に行くには急勾配な土手を登らなければいけない。少なくとも一分はかかるはずだ。仮に河童が先にゴールしていたとしても、そこから一分以上も遅れて私がゴールしたなんて、絶対にありえない。
「おまえは負けたんだよ」
河童は橋の上から見下すように、私に敗北を押し付けてくる。
「あ、あんた、なんかズルしたでしょ!」
私は断固として敗北の受け取りを拒否した。
「人間、いい加減にしろよ。不満があるならもう一度勝負するか? 何度やっても結果は同じだと思うがな」
「わ、私はねえ、魔法がこの世に存在するということを知っているのよ! あんた魔法を使ったんでしょ!」
私は魔女から魔法をかけられた。その魔法によって、どんなに頑張っても川から出られらくなった。この理不尽でかわいそうな体験により、私は魔法の存在を信じるようになった。魔法は確かに存在するのだ。
そして、「河童が天津橋の上にいる」というありえない現状を説明するためには、魔法の存在が必要不可欠だった。さらに言えば、私が敗北を拒否するために、どうしても魔法が必要だった。
「魔法? ……おまえ、もしかして魔女に会ったのか? 尻子玉が欲しいと言っていたのは、魔女に頼まれたからか?」
「そうよ! 魔女に魔法をかけられてこの川から出られなくなったの! 川から出してやる代わりに尻子玉を持って来いって魔女に言われたのよ。あんた尻子玉よこしなさいよ!」
「……おまえ、名前は?」
突然、河童が私の名前を聞いてきた。変なタイミングで聞いてきたなと思ったけど、私は素直に答えた。
「マコよ。香坂マコ。それがどうしたの?」
すると、河童は頭の皿を抱えて、首を二三度横に振った。そして、大笑いした。
「カパパパ! おまえ、魔女に名前を聞かれただろ? そして、今みたいにバカ正直に答えたんだろ?」
「そ、そうよ。それがどうしたって言うのよ。急に笑い出して、失礼だわ!」
「いいか、おまえに良いことを教えてやる。絶対に魔女に名前を教えるな。魔女が魔法を使うためには、相手の“実名”が必要なんだ。だから、名前を聞かれたからと言って、素直に教えるな……って、もう遅いか! カパパパ!」
河童は「カパパパ」と気味の悪い声で笑い転げた。その振動でおんぼろ橋がギシギシ鳴った。
私は魔女と初めて会った時のことを思い出した。そうだ、確かに私は魔女に名前を聞かれた。そして、素直に名前を教えてしまった。
「やーい、バカバカ。バカ人間。カパパパ!」
あぁ、私はなんて理不尽でかわいそうなのだろうか?
魔女に名前を聞かれ、素直に答えたせいで魔法にかけられ、川から出られなくなってしまった。私はただ、素直に答えただけなのに。「素直なこと」って、とても良いことでしょ? 「素直な私」って、とっても素敵な良い子でしょ?
さらにかわいそうなことに、私のチャームポイントである「素直さ」を河童にバカにされ「カパパパ」と気味の悪い声で笑われた。見ず知らずの河童にバカにされるなんて、かわいそすぎるでしょ? 人間じゃなくて河童によ? ほんと頭に来るわ!
他にもまだ理不尽なことがあるわ。私は今日、先輩の夢を踏みにじった。別にそれを望んでいたわけではないのに、私は先輩の夢を踏みにじるしかなかった。私だって人の夢を踏みにじりたくなんてなかったわよ。でも、そうするしかなかった。あぁ、本当に理不尽だわ。別に先輩の夢を踏みにじる役目は私でなくても良かったはずなのに。
その上さらに、私はわけのわからないうちに“敗北”を押し付けられてしまった。自慢の泳ぎで、河童に負けてしまった。それも、一分以上差をつけられての完敗だった。私の血のにじむような今までの努力を否定された気がして、非常に落ち込んだ。
ほんと、かわいそう。私ってかわいそうだわ! なんでかわいくて才能があって素直で努力家でこんなに素敵なレディーである私が、こんな理不尽でかわいそうな目に合わなければいけないのよぉ! もうっ!
私は天津橋の上で笑い転がり続ける河童を睨みながら、そんなことを考えていた。
夏の夜、月が雲に隠れ、セミが鳴いた。