第九話
「おい人間、そこは俺の場所だ。どけ」
目の前には、河童がいた。目の前にいる河童は夢の中にいた河童とは違い、メタボ体型ではなかった。全体的に細身でありながら、肩やふくらはぎなどの筋骨は隆起していて、ゆるキャラ的要素はまったくなかった。頭には通説通りの“皿”が鎮座しており、背中にはこれまた昔話通りの“甲羅”が担がれていた。肌の色は緑であり、手のひらには水かきがハッキリと見えた。
「おい、聞いているのか?」
月明かりに照らされた河童の顔は、意外と小顔だった。鼻筋はスッと通っていて、唇は肉厚で色気があった。また、眉毛はキリリとしていて、その大きな瞳をよりいっそう強調していた。つまりは、イケメンだった。
「あ、あの」
「なんだ?」
私は突然目の前に現れた河童に驚きながらも、とりあえず何か言わなきゃと思った。
「尻子玉をください!」
咄嗟に出た言葉がこれだった。
「帰れ」
「きゃ!」
河童は少し怒った表情で、岩の上から私を突き落とした。そして、先ほどまで私が大の字で寝ていた場所に座り込み、甲羅の手入れを始めた。
「ちょ、ちょっと! 何すんのよ」
岩の上から突き落とされて、私は頭に来た。寝起きの心地よい瞬間を母に邪魔された時のように、イラッとした。河童だかなんだか知らないけど、偉そうに! そこは俺の場所だぁ? ふざけんな!
「尻子玉よこせ、この糞河童!」
咄嗟に出た言葉がこれだった。
「…………」
河童は無言だった。完全無視。そして、私は無視されるのが大嫌いだった。
「ちょっと! 聞いてんの? 尻子玉よこせって言ってんのよ」
私は平たい岩によじ登ろうとした。
「もげ!」
しかし、すぐに河童の足蹴りを喰らい、再び川に落ちた。河童の緑色の足裏が勢い良く顔面に命中したため、私は背面泳ぎの状態で川に落ち、そのまま数十メートル先まで流された。
痛む鼻がしらを抑えながら、ようやく体制を立て直した私は、河童が居座る岩まで泳いで戻った。鼻からは鼻血が出ていた。
「あ、あんたねぇ、レディーの顔を蹴るなんて、男の風上にもおけないわよ!」
私は立ち泳ぎをしながら河童に向かって怒鳴った。すると、河童は思慮外のことを言った。
「おまえ、泳ぐのへたくそだな」
はぁ?
私は頭プッツンした。まるで血管が沸騰しているかのようにフツフツと、怒りの感情が体中から湧き出ているのを実感できる。
河童は岩の上から私を見下す。
「おまえのスイムは汚い。まるでなっちゃいない」
許せない。その言葉は、私の全てを否定する言葉だ。この言葉だけは聞き捨てならない。絶対に。
私はわざわざ「泳ぎ」のことを「スイム」と言い換えた河童のしゃべり方にも心底イラついた。
「そんなに言うんだったら、勝負しなさいよ!」
かくして、河童と人間の水泳対決が今宵、実現する運びとなった。