スパルタン
今回はデマラトス側目線です。
白い大理石造りのジムでスクワットを続ける人物がいた。
彼の全裸の肉体は汗で光り、太く捩り上げられたワイヤーのような筋肉がてらてらと輝いていた。
彼は動きを止めると今度は逆立ちをしながらの腕立てを始めた。
細かく震える肉体は周囲に汗を飛ばしながら上下を繰り返していた。
年齢は40歳ぐらいだろうか? 世間的には初老に入りかかったと思われる男だがまったく衰えを感じない。
それもそのはずスパルタでは兵役引退は60歳。食事の栄養管理と日々の訓練が息の長い兵士たちを支えている。
(王位について6オリンポス周期の2年か早いものだが)
腕立てを終えた男は水浴びしながら、これまでの治世をぼんやり思い出していた。
この男はデマラトス、エウリュポン王家の王である。
彼は生まれる前から数奇な運命を辿っていた。
彼の母はスパルタでも有名な美女で夫アゲトスはアリストン王の親友だった。
当時、アリストン王は二度妻帯していたが子供が生まれていなかった。
そこでアゲトスとお互いに一つだけ欲しいものを、何でも譲り合うという誓いを立て、褒章と交換の形でアゲトスの妻をだます様に得た。そしてすぐに生まれたのがデマラトスである。
当初はアリストン王が月数が満ちていないということでアゲトスの子では無いかと立太子されなかったが、日に日に健やかに育つわが子にほだされたのか、いつしか問題とされず、成人と共に立太子された。
彼はスパルタンとしても非常に優秀な戦士としての素質に恵まれ、個人の武力ならクレオメネスを凌ぐのは明らかであった。
その証拠にオリンピックの戦車部門で全ヘレネスからの勝利を勝ち取ったこともある。
それに加えて脳筋ではない知性を有し、戦場での指揮もアギス家を凌ぐ腕前を持っていた。
今日も早朝から肉体トレーニングを行っているのは、その自負の表れでもあり7歳からの習慣でもある。
彼は生まれの不安さを打ち消すようにスパルタンとしての実績を積み重ねてきたのである。
その結果、最近では軍事関連に関して「武のアギス家」より多くの妨害が入ってきた。
あくまでも「治のエウリュポン家」が戦士の関わることを嫌がるようになっている。
従来アギス家とエウリュポン家はあくまで対等だが、得意分野が異なっていた。
アギス家は外征、エウリュポン家は内政だったのだが、デマラトス王は両方に秀でたため王家のバランスが崩れかかっていた。
以前にも王家のバランスが崩れたときがあり、そのときにリュクルゴスの改革が行われた。
リュクルゴスで主導をとったエウリュポン家の末裔が優秀さゆえにバランスを崩すというのは皮肉だった。
彼はエウリュポン王家の中でも浮いた存在だった。
それは多くは出自の不安によるものだったが、それに加えて王家の姫を嫁にするとき傍系王家のレオテュキデスとの婚約を解消させ結婚を行ったことで、レオテュキデスを含む傍系王家の反発を買ってしまったのだ。
(ちなみにこの姫とアーシアの母カイレイは従姉妹に当たる。)
これにより多くの策謀が組まれたが、リュクルゴスの調整もあり、大事には至っていなかった……これまでは……
今年アテナイの向かい側の島国アイギナがペルシアに服属した。
アテナイは当然反発、しかし戦士=市民のアテナイでは戦争を仕掛ければ国力が落ちる。
そこで常在戦場のスパルタに懲罰を依頼してきた。
デマラトスの考えとしては行軍の費用はアテナイ持ちなのでペルシア戦争に向け6000の全力出動でアイギナそのものを滅ぼす勢いで厳罰を下し、再度の離反を防ぐつもりだったが、この腹案にアギス家のクレオメネス王が反対。
最小限の兵で敵首脳部を差し出させる方針を決めた。
スポンサーのアテナイも安上がりなクレオメネス王案に賛成。
その結果は都市壁を楯に篭城するアイギナと、少数のスパルタ兵の遊撃ということでアイギナはデマラトス王が来ていたら首脳陣を生贄に出すしかなかったと囃し立てる毎日。(つまり6000人なら手も足も出なかったという意味)
これをどう取り違えたのかデマラトスが6000人で攻めるなどという噂を流したのでアイギナは篭城準備を固めたという話になり、双王が揃わないと首謀者は差し出さないという話に化けた。
双王が戦場に向かうなら最低でも3000以上の戦士が動くことになるので降伏の条件は信憑性があるのだが……
デマラトスの心配はそのことではなかった。
クレオメネス王が対抗心を燃やした結果、判断を間違えたように、双王家そのものがバランスが取りにくいシステムなのである。
ペルシアとの戦争の中で、このような事態が発生すればヘレネスが崩壊してしまう。
かといって、過去の自分の事績を消して、武のアギス家、治のエウリュポン家に戻すことも不可能。
可能性として残るのは自分が王を引退して新王に変えることだが、それなりの理由が無いと賢王の引退は民が認めない。
自分の進退、そして武名の落ちたクレオメネス王、ペルシア戦争を前に困った事態である。
クレオメネスは娘のゴルゴ以外は子供がいないせいで、異母弟のレオニダスを婿に迎え立太子してある。
レオニダスの武はデマラトスに匹敵するし、賢姫ゴルゴの判断はアギス家を興隆させるだろう。
最悪、クレオメネスが引退すればアギス家は丸く収まる。
一方でエウリュポン王家はリュクルゴスやデルフォイとの繋がりが必要で、王になる前に十分な訓練を積み、判断力を鍛えなくてはならない。
デマラトスの息子のナビスはまだ15才、成人前である。
まだまだ鍛え上げないと使い物にならない。
しかも難しいことにエウリュポン王家は外部との接触が多いせいで富貴というものを知らなくてはやっていけない。知りながら、それをスパルタ国内に持ち込ませない。
極めて厳しいストイックさをもとめられるのがエウリュポン王家である。
このため、幼少期からの訓練が終了するまでは王位につけることすら危ぶまれる。
「まったく困ったものだ」
彼の呟きは八方塞がりの現状に対するため息だった。
「デルフォイの神託を依頼してみるか」
すでにアギス家は使者を出しているのだが、アレティア巫女長ルートでの交渉はまだ行ってない。
「アレティアとあとアテナイのアルクメオンに借りを返してもらうか」
そう決めると使者の選定を頭に浮かべながら、派遣の手続きのために、アクロポリスへの道を戻っていった。