凡人
松明を片手に暗い階段を下りていく。
この地下階段は石で組んであり、石と石の継ぎ目の段差が、松明の明かりに照らされ、垂れた油のような黒い染みに似た影を揺らめかせている。
足元はおぼつかないが、なんとなく壁に手をつくのも躊躇われるような雰囲気だ。
一歩一歩確かめながら階段を下りていく。
そうして十数段も降りたときだろうか?
ガラガラという音が右前方で鳴ると、光が漏れてきた。
と同時に松明の炎がボクの顔に向かってたなびいたため、あわてて体を捩る。
松明の強烈な炎が目の前を通っていったため、視界が一瞬真っ暗になった。
そのせいでよろけた足の先は空を切り、腰に衝撃が走った。
そのまま数段階段を転げ下りる。
転げた大きな音は上にも聞こえたようで、安否を尋ねる声がした。
「大丈夫だー」
そういって起き上がったが、腰が打ち身で痛い。
おまけに松明をかばったせいで肘をすりむいたようだ。
熱く、ジンジン痛む感じが右肘から伝わってくる。
「大丈夫ですか?」
今度の声は至近から聞こえた。
部屋の中から漏れる光で逆光になっているが神官マリアが前にいた。
「少し転んだだけです、大事ありません。」
そう答えたが、彼女はボクを見るなり
「お怪我をしてますわ。とりあえず部屋で手当てを。」
そういわれ右ひじを見ると肘の先の皮が捲れて血が滴っていた。
彼女に促されるままに、部屋に入ると部屋の中は地図が貼ってあり、いたるところにチェストが置かれている部屋だった。
そのチェストの一つから彼女は小さな壺と薬草を取り出すと薬研ですり始めた。
「油を塗ります。(チィーリスモ ルァディ)」
チィーリスモ?
最近神経過敏になってるのか、キリストに似てるギリシア語には反応してしまう。
部屋の中で見てみると肘は思ったよりズル剥けになっている。
傷を見たらとチクチク、ズキズキしてきた。
(でもゲームだったらHP1ダメージとかの軽い傷なんだろうな……)
しかし少しの痛みでも、思考力が下がった状態になり、ばい菌が入ったらどうしようとか。薬が沁みないといいなとか、深いことが考えられない。
アドレナリン全開モードの戦闘でもしてればボクの感じ方も変わるのだろうか?
凡人のボクだとようやく血が指まで伝わったところで、止血のためには腕を上げていたほうがいいのかと気付く有様だ。
その間にもマリアは作業を続け、練り上げた油を布に塗って湿布のようにしてくれていた。
「ちょっと沁みますよ」
彼女はそういいながらボクの傷に布をあてた。
あてられた瞬間に飛び上がりそうな痛みが来たが、一瞬ですんだ。
その後はむしろ脈動のズキズキいう方が痛んだ。
マリアは布の上から固く包帯を巻くと、転んだ理由を尋ねてきた。
ボクが状況を答えると、彼女はいきなり頭を下げてきた。
「すみません、扉を開けたせいで通路に風が起こったようです。」
ああ、あの松明の揺れは空気の動きのせいか。
理由は納得したが、彼女のせいで転んだとも思えないし、頭をあげてくれるように頼んだが、申訳ながってなかなか頭を上げてくれない。
「とりあえず定例の報告をしてからにしてくれ。」
そういうことで何とかマリアをビジネスモードに戻すことができた。
彼女の元に集まっていた情報は船乗りや商人の情報も多いため、物資の物価について極めて多くの情報が得られた。
「小アジア方面ではペルシアが大量の小麦を買い集めているので高騰しているということか」
「はい、それに対してシラクサやアテナイ、コリントスでは大きな値動きはありませんので各ポリスとも戦争準備はすすめて無いと思われます。」
まあ、その辺は規模の問題が大きいだろう。数十万単位の軍勢を動かすのと、数百から数千人を動かすのでは準備する糧秣の量が桁違いだ。海を渡っての攻撃側か地元での防衛側かというのも必要な糧秣に大きな影響を与える。
ペルシア側のほうが先に準備して大量に備える必要があるのは自明ではある。
「鉄と木材の値上がりは同じくらいかな?」
「木材に関してはギリシアのほうが一部地域では供給がタイトです。鉄は同じ位かと。」
ギリシアのほうも時間のかかる船の増産や武具の準備はすでに進めているようだ。
「アテナイ・テーベ・コリントスでは木材の高騰が見られますが、アルゴス・レスボスではそこまでではありません。」
「レスボス島はアテナイに対して戦争を準備しているのでは無いかという噂があります。アルゴスはスパルタがペルシア強硬派なのでペルシア融和派になったようです。」
「スパルタが強硬派っていつ決まったの?あの国の気風から納得はできるけど」
「アーシア殿がデルフォイの神託でペルシアに勝てるといったせいですよ。まさか気付かれてませんでした?」
……ああ、遠い記憶にそういえばそんなこともあったような……
運命の一言ってやつだね。……気が重いが責任は取らないと
「とりあえず、物資の流れはだいたい理解できた。次に各国の指導層の噂について教えてほしい。」
それからしばらく主要ポリスの指導層の噂を聞かせてもらったが、多い多い主要ポリスだけで50以上の名前が出てきた。
たちまちギブアップしてピュロスを呼び寄せた。
ピュロスはボクの腕の包帯に驚いていたが、職務に集中させ、現状についてマリアから講義を受けていた。
彼女は板に記録しながら諸ポリスの現状をうまく纏めて把握しているようであった。
やっぱり地頭ではピュロスには及ばない、それに考えてみると階段を下りるときにコリーダをつれていれば擦り傷を作るようなことにもならなかったであろうし……つくづく自分の凡人さを噛み締めることになった。
こんな凡人が英雄になろうなんていうのはどだい無理な話だ。
できる範囲で頑張って、自分がいいと思う方向に進めていくしかない。
まずはトイレ普及を念頭に頑張っていこう。