ピタゴラス教団
神像に祈りを捧げていたのは老女とまでは言えないが、かなり年配の女性だった。
「大奥様!」
ボクの後ろに控えていたピュロスが飛び出し駆け寄って跪いた。
「大奥様?」
ピュロスの知人らしいが誰なんだろう?
「アレティアーノ!」
その女性が驚き目をみはりながらピュロスに声をかけた。
「やっぱりテアノ様ですね。なぜここに?」
「ピュロス、ちょっと待ってくれ。こちらにも説明が欲しい」
置き去りにされたボクらは、疑問符を顔に浮かべていたが、とりあえずボクから尋ねてみた。
「失礼しました、アーシア様。こちらはテアノ様、ピタゴラス先生の奥様です」
ピタゴラス先生のつま? そういえば60過ぎてから結婚して子供作ったって聞いたことがある。
だとすると年齢は40代後半かな?
「テアノ様、クロトンの教団に残られたのでは?」
「あちらはマイアに任せました。アルクマイオンと一緒に運営しているはずです」
「アーシア様、クロトンのミロ様に嫁いだピタゴラス様のお嬢様がマイア様で、教団では奥様、その母上のテアノ様が大奥様と呼ばれていました。アルクマイオン様はピタゴラス様が指定した後継者です。」
ピュロスが人物の説明をしてくれるが、そもそもなんで彼女がここにいるんだろう?
「すみませんがなぜテアノ様がここにおられるのか? よくわからないのですが?」
尋ねたボクの言葉に訝しむように、こちらを見ていたが、ピュロスから現在の主人でありデルフォイの予言巫女であり、次代の神殿の束ねであることを告げられると態度が一変した。
「失礼しました。デルフォイの神殿の方でしたか」
うやうやしい態度で一礼すると、彼女はピタゴラスがその両親がデルフォイに詣でて、生まれた子供であり、デルフォイそのものが教団でも重視されているオルフェウス教で重要な黄泉とバッカスの神殿が存在する聖地であること。
その縁とアレティア巫女長がクロトン近傍のタラントの王家出身であることから影に日向に教団を保護してくれていること。
今回クロトンを去るにあたり巫女長がテアノの算術を生かせる隠れ家として、ここコリントスのアフロディテ神殿の出納役を世話してくれたことを話してくれた。
「隠れているのはピタゴラス教団を付け狙う者たちが残っているからです。今はこちらで神聖娼婦の中で見どころがある人物に数秘術を教えています。」
どうも、波乱万丈の生き方をしているらしい。
「そういうことでしたか。これからアフロディテ神官のマリア様に会うのですが、お願いしたいことがあれば取り次ぎますが?」
彼女は要望は特にないということでピュロスが今後も連絡を取ることを約束すると別室に下がっていった。
「大奥様はマイア様と、私が同い年なので子供のように感じると言って世話をしてくださった方なのです。ご協力できることが有れば……」
そこまで言ってピュロスは声を詰まらせたが、奴隷なのでボクの許可なしに行動はできないということだろう。
ボクはただ頷くことで彼女に承認を与えた。
「そういえばマリア様はどこにいるんだ?」
テアノ様に聞けば良かったと後悔したが、ほどなく妙齢の女性が現われて、案内してもらえた。
「ここからは一人でお願いします。」
地下に向かう石階段の前でそう告げられ、ボクは松明を手に一人降りていくことになった。
神殿というには、いろいろと秘密めいたところも多いが、ヘレネス最大の情報機関の根拠と思えば全く不思議はない。
こことデルフォイは協力することで権威を確立し、生き延びてきた。
……生き延びてきた?
なにげなくそう思った時、何を相手に生き延びてきたのかという疑問が湧いてきた。
その正体がわかれば、ここアクロコリントスの城壁の理由もわかるだろう。
そう気付いたのである。
面倒なことに手を突っ込んだような気もするが、いまさら手を離すのを好奇心が許さなかった。
「好奇心、猫を殺すか……」
コリーダが抱いていたホルスがゴロゴロと喉を鳴らすのが通路に微かに響いていた。