戒律と貿易
食事が運び込まれ、食後の緩やかな会話を楽しんだ。
キモンは素直すぎる性格もあって、クレイステネスさんによくからかわれていたが終始ご機嫌だった。
「アーシア、これからどうする?」
食事の後片付けも終わり、みんなの寝具を敷き終えたところで、クレイステネスさんが話しかけてきた。
「どうするといいますと?」
「いやアーシアのアテナイに来た目的って何だっけ?」
「ええとですね・・・」
ミルティアデスにマラトンの闘いの準備をさせる・・・今日終わった。
古代ギリシアの見聞を広める・・・もうアテナイじゃなくてもいい。
もしかして終わってる?
次に向かうのはコリントスだが期日まであと一月ほどある。
あと、ドロンに料理を教えるのはあるけど・・・べつにアテナイでなくてもいいしな。
そういえばドロンいつ来るんだろう?
「あとは料理人がやってくるのを待って、料理を教えながら旅をすることになると思います。」
「そんなもんか・・・順当に進んだようだな。」
「ええ、想像以上ですね。クレイステネスさんの助力のおかげです。」
「そうか、それでだな。時間があるならちょっとお願いしたいことがあるんだが・・・」
「ええ、かまいませんよ。」
・・・
翌日、俺たちは造船所にいた。
「これがその新造船ですか。」
目の前で作られている2段櫂船をみながらクレイステネスさんに確認する。
「おー、これが最新鋭輸送艦イオニアだ。」
造船所でトンカンさせながら作られているのは全長40m、幅6m、高さ5mの船だった。
「いままでアテナイには輸送専用の船がねえんで、軍船の空いてる隙間で貿易してたんだが、やっぱ効率が悪い。」
そういうとおもちゃを見せびらかす子供の顔で
「で、貿易専用の船を作ってみたというわけだ。」
「面白いですね。」
そう相槌をうつと、そうだろう・そうだろうと満面の笑みを浮かべている。
「もちろん問題はある、一番の問題は海賊だ。」
輸送船イオニアは普通なら3段櫂船の大きさを持つ2段櫂船である。
漕ぎ手は100人、3段櫂船は200人、海賊(敵の軍船)が3段櫂船の場合、簡単に追いついてくる。
全速力はこっちが6ノット、相手は10ノットだ。
かといって、こっちも3段櫂船にすると、輸送量が減り元も子もなくなる。
何かいい自衛方法はないかというのがクレイステネスさんの依頼である。
「白兵戦は問題ないんですよね。」
「ああ、そいつはこっちが上だ、3層櫂船だと戦闘員は20人くらい、こっちは40人は積める。」
「となると衝角ですか」
この当時の海戦は体当たりで敵の舷側を突き破る衝角戦法が一般的な時代だ。
回避性能は船の設計であげるとして、まず体当たりをためらわせればいいのか。
「火矢はどうですか?」
「そいつは向こうも打ってくるぞ。」
「船の前後にやぐらを組んで射程を伸ばすんです。拿捕する前の被害が大きくなるのがわかってれば、他の船を狙うでしょう。」
「なるほど、考えてみる余地はありそうだな。」
そういうと船大工の方に走っていった。
「船の前後に砲台か(笑)」
ちょっと時代を早めたかもしれない。
船を見ながら思った。
この時代、船はフェニキア、リヴィア、ギリシアの各民族が競い合って地中海に進出している。
ただし、商取引はあっても商契約という概念がない。
契約というのは同格の立場の人間間で都合が悪くなっても約束を守るということで、美徳ではあっても強制力はない。
約束を守らなければいけなくなるのは、ローマにおける信義の概念とローマ法の設立を待たなくてはならない。
故に古代ギリシアでは契約に強制力が存在しないのだ。
では交易はどうしているのかといえば、運んで到着地の相場が良ければ売り、相場が合わなければ売らずに次の港に向かうということになる。
儲かる儲からないは運ではあるが、大抵は高く売れそうなものを持っていくので荷を処分せずに次の港に向かうということはない。
ただし、契約できないため、アテナイの商人にカルタゴの商人がなにかを発注するということができない。
頼んでも着いた時点の相場が高くなっていれば、アテナイ商人は高値を付けた他のカルタゴ商人に売るかもしれず、アテナイ商人も相場が安くなっていればカルタゴ商人が買い取らない可能性がある。
このため、物の動きは思ったよりも定型的なものになり、貿易の活発化はある程度で止まってしまう。
それゆえに交易を主目的にしない軍艦の余剰積載分を使うのだが・・・専用の貿易船を作ってしまうのは結構なギャンブルである。
商品の額が高額になるということで、売り越し、買い越しを平気でできる資本力が必要だ。
アルクメオン家ぐらいの余裕がないと大抵の商人には一航海でも一かバチかのギャンブルになるだろう。
「契約の概念か・・・」
ユダヤ教のように人の行動の善悪を定めた戒律という存在があれば、それをもとに契約の概念を一般に浸透させることは可能だろう。
しかしギリシア神群にそんな縛りはない。
祈る(供物をあげる)代わりに加護を与える。という形での宗教感であり、束縛は緩い。
「キリスト教が発生しなくなると西欧ってどうなるんだろう?」
少なくとも文明的なと言われる基準が全く異なることだけは間違いないだろう。
ヘレネスとバルバロイのように領域外には積極的興味を示さない閉鎖的な世界が出来上がる可能性もある。
だが・・・通商が発展すればその形を壊すことができるが・・・そのためには契約に伴う強制力が必要になる。
ヤハウエが唯一神という異端でも生き残ることができたのは「戒律」という行動の指標を与えて、人々の心に安心のよりどころを作ったことが大きい。
少なくとも同じ宗教の信徒なら戒律に反する行動をとることはない。
ゆえに信頼の基準が飛躍的に高まるということだと思う。
ユダヤ教徒が商売がうまいというのも、ユダヤ人同士なら戒律に基づく禁止事項があるため、契約が成立して大規模な取引ができたということが大きいと思う。
そのあたりを考えると・・・
「どうやって強制力を作るかだな。」
目の前で完成していく輸送船を前にアーシアは一人考えていた。
「離れた場所の人物に約束を守らせる方法ですか?」
クレイステネスさんにコリントスまでの船の手配をお願いした後、この時代の人物に相談してみることにした。
今、所有している3人の奴隷達である。
サンチョは中華の事例をもとに答えてもらった。
「やはり文書に記入して署名してもらうのが一般的でしょう。ただしこちらの羊皮紙では削り取って修正できるので、中華の絹が必要ですが・・・」
羊皮紙は間違った場合皮を削ってインクをこそぎ取る。
このため署名しても後から改ざんが可能ということでその点が紙と異なる。
かといって薄いパピルスでは高価な上、耐久性に問題があって、わら半紙よりもひどい。中華でも紙の製法はまだ見つかっておらず、絹布に書き込んでいた。あとは木簡・竹簡があるが、漢字ならともかくギリシア文字では文字数の関係から大きく重くなりすぎてしまう。
「神に誓ってもらうのが一番ですね。アポロン神の場合、神罰は疫病ですのでポリス間の条約等ではアポロン神に誓うことも多いですよ。」
ピュロスの意見は同じヘレネス内なら通じうだろうが他民族との交易には使いにくいものだった。
「そりゃあ、約束破ったらぶん殴ることですよ。」
コリーダの意見はわかりやすかった。だが自分たち以外の交易についても考えると現実的とは思えなかった。
ともあれヘラクレイトスさんはすぐにコリントス行の手配をしてくれた。
ドロンについてはアポロン神殿に伝言してアテナイで待っていてもらうことにした。
それを聞きつけたヘラクレイトスさんが、コリントスで用事を済ませたら、またアテナイに来て船の完成を見てほしいと頼まれたので快諾した。
コリントスでアフロディテ神殿に行ってからもう一度考えてみよう・・・全く違う未来が見えるかもしれない。