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望まない名前「ピュロス」

私は14歳、再びピタゴラス先生の元にいた。

奴隷でかつ女性ということで教団には入ってはいなかったが、ピタゴラス先生の内弟子というような感じに周囲からは見られていた。


今から4年前、中華からクレイステネス様が戻ってきたとき、先生は大喜びで迎え、クレイステネス様を一週間、質問攻めにしていた。

クレイステネス様もいろいろと面白い話をしてくれた。

ペルシア・ガンダーラ・中華の話はまるで神話のように不思議な話ばかりだった。


その後すぐ私はアテナイに戻されて、通常の業務、貴人の世話の仕方や他の奴隷に対する指揮の仕方を母から学んだ。

このとき母は妊娠していたので教育と補佐を兼ねていたのだと思う。

この時に父は別の女性と番わされていたので子供は、異父弟になる。


これはピタゴラス様から、私の能力が高く評価されたため、どちらに優秀な血があるのか確かめたらしい。

結果として両方とも、別のペアでも同じように優秀な子供が生まれたことから、双方を別々に血を残した方が、効率が良いとの判断がなされ、以降父と母の間では子供を作っていない。

私としては判断に困る事例だが、ピュロスの血統のうち優良な二血統を継ぐ唯一の女になってしまった。

ピュロスの当主様は繁殖用に私を残せないのをしきりに惜しんでいた。



ともあれ三年ほど奴隷としての基礎知識を覚えさせられると、一年前に急きょピタゴラス先生の天文学を手伝うことになった。


ピタゴラス先生は死の危険にさらされていた。

教団に入れなかった貴族が襲撃をかけたため、クロトンの館は炎上、教団は離散。そしてピタゴラス先生は逃亡してイタリア半島のポリス、メタポンティオンに避難されていた。

ヘラクレイトス様とクレイステネス様がなんとか手をつくして逃がしたらしい。

メタポンティオンは私の主人になるアレティア様の出身ポリス タラントの隣のポリス、海路で半日、陸路でも急げば一日である。こう考えるとアレティア様も何か関係しているのかもしれない。


現在83歳のピタゴラス先生は、持病だったソラマメへの拒否反応が他の食物へも広がっており、食べられるものが少なくなっていた。

今はユリ根から作った粉と甘草の粉を混ぜたものを僅かに喉を通すだけである。

この食物はクレイステネス様が教えてくれた。

もともとは東洋の薬らしい。

これがなければ先生はもっと早くお亡くなりになっただろう。


死を前にしても先生は全力で今までの研究を行っていた。

同時にそれを教える教団員に対して、昼夜を問わない指導をされていた。

私は貴人の世話をピタゴラス先生で実践することになり、常時一緒にいることですべての指導を聞くことになった。

天文学に関しては、もはや観測のおぼつかない先生の代わりに、天体観測をして報告するようになっていた。


そして最後の日は来た。


「先生、プレアデスが昇るようになりました。」

この星々が日の出直前に昇り始める時期は麦の収穫時期の始まりを示す。

(注)現代で言うと5月上旬に相当します。


逆に沈むときは畑の耕耘の時期である。

(注)同じく10月下旬に相当します。


ベットに寝たままで私の声を聴いた先生は弱弱しく微笑むと

(・・・ティア)

小さな声でささやかれ始めました。

(・・・お別れの時が来たようだ。君にあえて楽しかった。感謝・・・願わくば、ヘラクレイトスとクレイステネスにも同じ幸福・・・)

もうほとんど言葉が聞こえません。


この日が来るのは分かっていました。

身長4キュビット(約180cm)の先生が僅か1と半タラントン(約40kg)になってしまわれたのですから。


翌日の朝、私は泣きながらヘラクレイトス様から預かっていた鳩の足に黒いリボンを結びつけると全部を放しました。

「ピタゴラスが逝きそうなったら、この鳩達を飛ばせ。」

ただヘラクレイトス様に依頼されたことを行ったのみです。


信じられないことに僅か5日で彼らは現れました。

「ティア!ピタゴラスは?間に合ったか!」

3本マストのジャンクから先頭を走って部屋に飛び込んできたのはクレイステネス様です。


その後ろからヘラクレイトス様が麦わら帽をかぶらずに走ってきました。

「おい、いかさま師。目を覚ませ!」


その声に気付かれたのでしょう先生は、声も出せないほど衰弱していたのに、僅かに首を動かすと二人を見ました。


先生の目からは涙がとめどなく流れています。


「最後に感謝をつたえに来た。わが最良の友人で師であるピタゴラスよ。またハデスの元で会わんことを。」


「ふん、いかさま師。お前がいなくなると嘘がうまい奴がいなくなって、退屈になる。まったく最後まで期待外れだ。」


相変わらずの罵倒をするヘラクレイトス様ですが、真っ赤な目で言われても私も泣きたくなるだけです。


ピタゴラス様もわずかに微笑まれました。


(・・・ティア・・・ヒバリ)


その声はかすかでしたが確実に聞こえました。

私は自室に戻ると笛を取り出し、急いでピタゴラス様の元へ戻りました。


お二人に目配せをすると、低音から始まる雲雀ヒバリの曲を吹き始めました。一気に高音に駆け上がり、様々な音を巡ります。

そして本来なら低音に戻る場所になっても、即興でさまざまな音を巡らせました。

演奏は30分はつづいたでしょうか・・・ついに私の体力が切れました。

最後の力で一気にさらに高音に抜けます。

星々の世界に先生を届けるため・・・・


「ありがとうアレッツォ。ピタゴラスは星の海に行けたよ。」

昔の愛称でクレイステネス様が声をかけてきました。

もう14才の私に男の名前はどうやっても似合いません。


「クレイおじさん・・・私は女の子・・・なんだからーーーー」

クレイステネス様にしがみつくと、そのまま泣き崩れ、眠りました。


・・・


目が覚めた時にはクレイステネス様が帰国に使われた3本マストの船の船室にいました。


そして、そのままピュロス家に送り届けられました。


「ピュロス、アレティア様にお目見えする日が決まったわよ。」

「はーい!いまいきまーす。」

母の声が私を呼びます。



・・・


(そうか、あの時、以来か。)

ずいぶん私も周りも変わりました、いえ変えられましたでしょうか。

目の前にいる年下の少年、ピタゴラス様にとって私はこんな存在だったのでしょうか?


「どうしたのピュロス?」


「いえ、なんでもありません。アーシア様」


こうやって話ができる日がいつまでも続くように。

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