懐かしい名前「アレティアーナ」
両腕に掛けるようにして持っている絹布が肌に心地よい。
これはアーシア様が私を奴隷から解放したら私の物になるのだろうか?
すべてアーシア様がお決めになることだ。
私たち奴隷は自分の物を持たない。
たとえ持っていても誰かに奪われたら取り戻せない。
法による財産の保護がされるのは市民と半自由民の特権である。
だが私は奴隷だが私物が一つだけ存在する。
もう何年も使っている古ぼけた葦笛。
そういえばこの笛を贈ってくれたのもクレイステネス様だった。
あれはいつだったろう?
たしかピタゴラス様のところにいた時だから13年ほど前になる。
・・・
「アレッツォー、どこだー?」
私を呼ぶ声が聞こえる。
「クレイおじさま、その呼び方はやめてくださいって、何回もいってるじゃないですか。」
プリプリと怒ったふりをして大好きなクレイステネス様に駆け寄っていく私。
「はっはっは」
笑いながら私の頭をなでてくれるクレイステネス様。
当時、私は4才。場所はピタゴラス様の屋敷だ。
「私は女の子なんですからアレティアーナって呼んでください。」
普通に縮めればティアかレアという女性名になるはずだが・・・私をからかうのが楽しいらしいクレイステネス様はわざと男性名でよんでいた。
「よしよしティアな。ちょっと待ってくれ。よっと」
そういうと懐からパンの葦笛を取り出した。
「お土産だ。」
私はそれを受け取ると少し黙った。
うれしいのだが、奴隷が勝手に物をもらってもいいのか悩んだのだ。
「大丈夫、それはお前の笛の練習用だから、ちゃんとピュロス家から許可は取ってある。」
「はい!ありがとうございます。クレイステネス様」
「クレイおじさん、でしょ。」
「はい!クレイおじさん。」
そうクレイおじさんとは、彼がそう呼ばせていたのだ。
「やれやれ、クレイステネス。私の優秀な生徒に何の用かな。」
「ピタゴラス先生、お加減は大丈夫ですか。」
風邪気味だといっていた先生に尋ねた。
「ティア、ちゃんと宿題は終わったかな?」
「あと少しです。」
「じゃあ終わらせておいで、そうしたら笛を教えてあげよう。」
「本当ですか。約束ですよ!」
私はパタパタと元いた図書室に戻っていった。
「すごいものだな、ピュロスの血統は。」
「そんなにすごいか?」
「ああ、私も一人ほしくなった。」
「ほー」
ピタゴラスはすでに74才色恋沙汰ではないだろう・・・自信はないが・・・たぶん。
「昨日、地球が丸いことを説明したら彼女なんて言ったと思う。」
「地球が丸いと反対の人は空に落っこちる、かな?」
そう考えるのが普通だ。
「いや、反対側の人はどうやって歩くのか尋ねられた。」
「?」
「だって逆立ちして暮らしてるんでしょだとさ。」
・・・たしかにすごい。彼女の頭の中に座標軸と相対位置の観念があることを示している。
「いま教えているのは、まだ万物の根源が数であることと、それに伴う幾何だけだ。それだけでたどり着いたのだから素晴らしいよ。」
「買いかぶりすぎじゃないのか?」
ちょっと長き友人に水を差してみた。
「そうかもしれない、だがそうでないかもしれない。若い芽は常に希望に満ちているよ。」
その言葉には納得せざるを得ない。
「ところでクレイステネス、地球の反対では星座は変わるのかな?」
「変わるだろう、普通に考えれば?なんでだ?」
「今教団で論争になっていてな。地球が動いてるなら星座はどこでも変わらないはず、天も動いてるなら星座は変わるはずという命題だ。」
「?」
「地球が回っているのは知っているな。」
「ああ、もちろんだ」
「星座は太陽よりも遠くにある星の並びだ。当然太陽が手前にあるときは見えないだろう。」
「確かに、昼間は見えないな。」
「で回って太陽の裏になった夜に星座が見える。」
「うん。」
「星座は1年かけて交代する。もちろん1日でみても一回まわっている。」
「ああ」
「地球の反対側は我々が昼の時に星座を見てるんだから、季節が反対の星座を見てるんじゃないか。と言い出す奴がでた。」
「は?」
「確かに星座は一晩で半年分くらいの動きをする。だからこちらで見えてない昼にさらに続きの半年分を見せているという可能性も捨てがたい。」
・・・
「で、君はどう思うと聞いたのだ。」
それだと地球が止まっていて、天球が動いていそうな気もするが?
・・・いや天球の中心が太陽で、そこを中心に天球が回れば、地球がさらに太陽の周りをまわっていてもいいのか。
学者ってのは。損にも得にもならないこんな・・・本当に訳のわからないことで熱くなれるんだ・嫌いじゃないが。
この間まで人の汚泥ばっかり見させてられた人間からいうと(そんなところが、大好きだよ、爺さん)といいたくなる。
「わかった、俺が行って見てきてやる。」
「おいおい、地球の裏側だぞ。」
「さすがに裏まで行けるかはわからんが、ずれるならガンダーラまで行けば半分は、ずれるだろう。いけるとこまで行って観測して報告してやるよ。」
ピタゴラスは突然、顔をクシャリとゆがめると俺の両手を握り、嬉しそうに涙をこぼした。
「たのむ。」
本当に変人だ、でもまっとうな悪人よりは千倍マシだ。
「ピタゴラス先生、宿題終わりました。」
私が部屋に入ったら先生は目をこすっていた。
「おお、じゃあ約束だ。まずは基本の音の出し方を教えようか。」
私は先生に笛を差し出した。
「ティアや、音は完全五度であらわされる。こうだ。」
=ド・レ・ファ・ソ・ラ・=
「この音階を繰り返し組み合わせることで次の高音も示すことができる。」
=ド・レ・ファ・ソ・ラ・ド・レ・ファ・ソ・ラ=
「そしてこうゆうことができる。」
先生が吹き出した曲は低音から一気に高音に駆け抜け、様々な音を巡りながら最後には低音に戻ってくる曲だった。
「これは私が雲雀と名付けた曲だ。雲雀が一気に空高く舞い上がり、遊び、やがて無事に巣に戻ってくる様子を曲にしたものだ。」
「そうなんですか。綺麗な曲ですね。」
私はまだクレイおじさんの旅立ちを知らなかったので、曲に託された先生の想いに気づいたのはずいぶん後になった。