捨てた名「エレクトラ」
上下編になってます
「だめだめ、50ドラクマが限界。」
陽に焼けて浅黒いくせに、どこか弛んだ肌の初老の男は、染みが浮き出た手を顔の前でひらつかせながら小声で言った。
「そんなこと言わずさー、見てごらんよ。この子、きれいな顔してるだろー。別嬪になるよ。」
「女の子の顔は変わるから、あてにならん。」
「そんなことないさ。アテナイの市民の子供だよ。100ドラクマは欲しいね。」
悪臭が漂う裏路地の日陰で初老の男と中年の女は声をひそませながらも真剣に話していた。
アタシの前で値段交渉をしている女性は継母だ。
その相手は女衒、奴隷商人よりも格は下がり、主に娼婦になりそうな少女を専門に扱う商人だ。
アタシが売られそうなわけは簡単だ。父がお金に困ってアタシが「いらない子」だった。それだけである。
実母と父は3年前に離婚した。
アタシが5歳の頃だ。
そして母の実家に持参金を戻したため家は貧乏になった。
すぐに継母が来たが実母ほどは裕福な家ではなかったため、持参金は少なく、家は豊かにはならなかった。
しかし父は何とか貿易船を整え、貿易で儲けを出し始めた。
さらに継母はすぐに息子を生んだ。
おかげでなんとか市民らしく暮らせる見通しができていた。
そして今年の夏・・・父の貿易船が大破した。
季節外れの突風でマストが折れた。積荷もかなり流された。
父の資産は減少し、このままでは資産2000ドラクマを下回り、市民権を失う寸前になっていた。
「この子は綺麗なギリシャ語を話すんだよ。」
「娼婦に言葉なんていらないよ。股開いて、アヘアへいってればいいんだからさ。」
「そんな娼婦じゃ1日2ドラクマは取れないだろう。だから90ドラクマ。」
「おいおい、俺が使うんじゃないんだぜ。娼館に売る値段を考えろ。60ドラクマ。」
アタシはただボーと、目の前の光景を見ていた。
値段をつけらているのが自分だとわかっていてもどうしようもない。
「この子は8才なんだよ。もうすぐ初潮がくるから、すぐに使えるよ。」
「・・・65ドラクマ、これが限界だ。これ以上はよそを当たってくれ。」
商談は成立した。継母は頑張ったといっていいと思う。
そもそも素人が娘を売るのに、女衒までたどり着くことが難しい。
しかも相場並みを引っ張り出した。・・・これで父が市民権を維持できる見込みもついた・・・
「じゃあね、エレクトラ。気に入られるよう、頑張るんだよ。」
継母は銀貨の入った小袋をしっかりと懐に入れ、走り去っていった。
「お前はこっちだ。」
女衒の家に着いたアタシは入ってすぐの右手の部屋に入れられた。
そこにはアタシと同じくらいの年齢の女の子が数名入っており、みな顔立ちは整っていた。
「新入りさん、お名前は?」
部屋の奥の方から声がかかった。
「エレクトラです。」
「そう、わたしはメリア。短い期間だけどよろしくね。」
そう答えてくれた彼女は美しく、しかし強い意志をした瞳を持っていた。
この部屋にきて1月らしいがその間でいた人間がほとんどが入れ替わったらしい。
「こっちの部屋はまだいいのよ。奥の部屋は地獄よ。」
彼女が言うには、手前の部屋は、すぐ売れそうな商品で、食事もよく、毎日水浴びできる恵まれた環境だそうだ。
「だからこっちの部屋にいる間に、買いそうな人が来たら、早く売りなさい。」
奥の部屋は売れ残りで、最低限の食事・待遇で、成人まで育てられ、即戦力もしくはサービス価格で娼館に売られるそうだ。
売られるまでも地獄、売られてからも地獄、それが奥の部屋と教えてくれた。
そんな彼女はアタシがきて二日目には買われていった。
信じられないほどの優良物件で、老人が自分を世話する奴隷を求めに来たらしい。
死ねばメトイコイにしてもらえる条件に加え、夜の仕事はなし。
「ふっ、賭けに勝ったわ。」
そう彼女は呟くと洋々と出て行った。彼女は既に何件かを見送っていたらしい。
・・・うまく他の娘に押し付けて・・・
そのときアタシは風邪からくる高熱で倒れていた。
だから彼女の戦略をすごいものだと眺めているしかなかった。
そしてその風邪はアタシをやせ衰えさせ、奥の部屋に送られた。
滋養をつけて容姿を戻すななんて手間を女衒はかけなかった。
・・・奥の部屋は彼女の言ったとおりだった・・・
生きていくのがやっとの食事、皆、床に寝そべり、じっとしていた。
それでも、死ぬと大金が失わえるので、最低限の世話はされていた。
その世話係にアタシはなった。
毎日、みんなの様子を確認する。
病気の者がいれば知らせて他の部屋に隔離してもらい、うつらないようにした。
皮膚病にならないよう、みんなの水浴び(1週間に1回だ。)を手伝い、おまるの中身を毎朝捨てた。
その時に中身を調べ、初潮が来た人がいれば女衒に伝えた。
その子はだいたいその日のうちにいなくなった。
おかげで食事の量は以前に戻され、みんなの水浴びを手伝うことで、ほぼ毎日水浴びもできた。
そんな最低の仕事ではあったが、半年もたつと徐々に体がもとに戻ってきた。
そんな折にアタシは買われた。
買ったのは奴隷商人だったらしい、というのも、そのままエンデミオン家に転売されたので屋敷に着くまでしか一緒にいなかった。名前も知らない。
エンデミオン家のホールにはアタシと同じくらいの年頃の娘が5人いた。みんな粗末なキトンですぐ奴隷だとわかった。
あたしを含めて6名、えらく好色なのか・・・それとも目的があるのか・・・アタシは周りの子を観察した。
もう現実に甘い望みは捨てていた。
メリアのようにうまく利用するのみ、そう思い決めていた。
周りの娘たちを見ると外観はホドホドで農民の子供のように筋骨が発達していた。アタシもそうだが。
これでは娼館には高くは売れそうにない。奥の部屋の経験からそう解った。
共通項は、娘、年頃、体型くらいである。
・・・体型?
性的な目的ではないかもしれない。そう判断した。
そんなことを考えていると、屋敷の方から一人の軍人らしい人がやってきた。
その人物は何も言わずに二本の剣を投げ込んだ。
アタシは投げ込まれた瞬間に、迷わず剣を拾いに行った。
アタシが剣を拾ったのを見た5人は、争ってもう一本の剣を拾いに行った。
そのまま乱闘になり、やがては剣を使った殺し合いになった。
アタシはその間中、部屋の壁を背に、闘いから離れていた。
その様子を見ていた軍人が声をかけてきた。
「頭も良いようだな。度胸はあるか?」
そういうと最後に残った一人を指さした。
彼女はこれまでの戦いでぼろぼろになっていた。
「あなたの財産を減らすことになるけど?」
それを聞くと彼は静かに頷いた。
私は剣をまっすぐに構えると、彼女に突進し突き刺した。
「よし合格だ!」
アタシは彼の宣言を聞きながら必死で吐き気をこらえていた。
目の前には痙攣する名前も知らない彼女。
まるで奥の部屋の女たちのように床に寝そべり、まるで白いナメクジみたいだ。
もう戻れない、エレクトラには戻れない・・・わかってはいた。
・・・もう戻らない。
まだ9才のアタシは、それだけを心に刻んでいた。