クレイステネスの館
ブモー
あたり一面の沈黙を破り、牡牛の断末魔の悲鳴が聞こえる。
しかし数千人はいるであろう群衆からは話し声一つなく、つづく神官によるゼウスに対するヘカトンケイルスとの闘いへの感謝と賛辞は、あたり一面に朗々と響いた。
「アーシアちゃん、今だ。」
小声でぼそぼそと話しかけられキトンを引っ張られた。
みるとクレイステネスさんが神殿の出口に向かっている。
あわてて、その後を追いかける。
ピュロスとコリーダも何も言わずについてくる。
あたり一面すし詰めに人が立っている中、クレイステネスがかき分けた道をたどり、どうにか神殿の外に出た。
その直後に神殿から爆発的な歓声がした。
「肉を分け始めたんだよ。」
なんでもないことのようにクレイステネスさんが教えてくれる。
「これが始まると混乱がすごいからなぁ。一足先に抜け出すのが揉みくちゃにされないコツさね。」
飄々と言っているが、なかなかに含蓄の深い一言である。
「詳しいことは屋敷で話すよ。」
そういうと、人通りの少なくなった街道を北の方へ向かっていく。
ここまでで気付いたんだが思ったより通路にはブツは落ちていない。
付近の住民が積極的にブツをかたずけているようだ・・・ただし奴隷がだが・・・
臭いだけはどうしようもなく、汚水桶の付近に行くと咳き込むようなアンモニア臭+αにめげそうになるが、街の臭いは数時間もいれば慣れてしまう程度でしかない。
もっとも、衛生的にはかなり危険だと思うが・・・
やがて東門のディオクレス門を抜けて城壁の外に出ると、リカヴィトスの丘に向かって歩き出した。
「アーシアちゃん、あそこがうちだ。ゆっくり止まっていくといい。」
そう言ってその丘を指さす。
・・・街?・・・村?どっちもピンとこないかんじで密集した一画があるので、あのどこかだと思うんだけど、見た目で一番近いのは山の中腹に商店街が3列くらいある感じかな?
「あの街のどのあたりですか?」
とりあえず街としておこう。ただ、それを聞いたクレイステネスさんは小さく吹き出した。
「街か。まちねぇ、そおね。」
なんか納得したらしい。
「集まってる場所の真ん中が広場になっていて、その広場の真ん中に屋敷があるよ。」
ああ、そういえばアテナイ一の大富豪だった、全然そう見えないけど。
丘の南側はアテナイの城壁内に比べると家が大きい。小さな家を併設してある家も少なくないので高級住宅街だと思う。
「この辺りは大きい家が多いんですね?」
確認のためクレイステネスさんに尋ねる。
「ああ、比較的裕福な連中が集まってる。さっきの神官もここに住んでるぞ。」
へー。
「あの神官は普段は演劇を書いてる。本人はゼウスが好きだから。あの神官役が当たった時は大喜びしてたな。」
演劇?
そうか、ギリシャ悲劇と喜劇、もう両方ある時代か。どっちだろ?
「アイスキュロスってんだ。もっともディオニュシア祭の演劇大会ではまだ優勝したことはないな。いっつも、いいところまでは行くんで、そのうち優勝できると思ってる。」
アイスキュロス!ギリシャ3大悲劇作家のひとりじゃないか。
その下積みの頃が見れるなんて・・・もっとよく見ておけばよかった。
まだ、禿げてなかったよな・・・あのままだったら、死ななくて済むのに・・・
彼のエピソードとしてはギリシャ3大悲劇作家というよりも、ワシが食べようとした亀を割ろうと岩に落としたら、それが間違えてアイスキュロスの禿げ頭だったという、かわいそうな死因の方が有名である。
その後は最近の演劇の風潮について教えてもらい(クレイステネスさん曰く、定番ばっかで捻りがない。役者の喋る能力で決まるみたいなもんで、ストーリーがいまいちとか。)
そうか、まだ役者一人でやってたんだ。
主人公と合唱隊の掛け合いだけで進めててたら、そりゃ限界来るわな。
じつはアイスキュロスさんが役者二人に増やすんだけど・・・まだ思いついてないのか。
丘を登ることしばし、商店街の入り口で言われた。
「ついたぞ。」
「ええ、つきましたねー」
見えてる屋敷まで、まだ100mはありそうだが到着したのは間違いない。
「どこでも人がいない家なら好きに選んでいいから。」
「え?」
「ここ全部うちだ。」
ええーーどう見ても200mクラスの商店街が並行して3本並んでるんですけど、人もたくさんいるし。
「一応、真ん中の屋敷が俺の普段いる管理棟になってる。」
・・・管理棟って・・・それだけで100坪近い家なんですけど
「じゃあ、まずは管理棟行くか。」
そう言うと商店街のおばさんをからかいながら道を進んでいく。
威厳はまったくない。
「ピュロスはここ知ってたの?」
ピュロスに聞いてみる。
「噂では聞いたことがありましたが、来たのは初めてです。」
そうだよなー。知ってれば教えてくれそうだし・・・
その横でいきなりコリーダが手を挙げた。
「はいはーい、ご主人様、コリーダはここ知ってます。」
え?意外。
「護衛の訓練中に隊商の護衛でここに来たことがあります。」
なぜか、胸をはるコリーダ。
いやピュロスの知らないこと知ってて、気持ちいいのは分かるけど。
でも、ここには隊商も来るんだね。
・・・もしかしてアゴラ並みの商業力あるんじゃない?
「おーい、こっちー。アーシアちゃん。」
前方からクレイステネスさんが声をかけてきた。
考え込んで足が止まっていたらしい。
「はい、今行きます。」
だいたい10件に3件程度の空き家があるなー。
どこに住もうかと横目で見ながら、やや速足で商店街を通り抜ける。
途中で気付いたが
管理棟の門には衛兵がいたが、当然クレイステネスさんと俺たちはそのまま素通り。
館の中に入ると思ったより明るい空間の中央には竈があり、右に4つ、左に4つ、小部屋への入り口が見える。
そして家の中に入るとクレイステネスさんの肩から力が抜けたのがわかる。
「ふー、ここでは安全だ。気を楽にしたまえ。」
口調が上品な感じに変わっている。
いつのまにか下町の親父さんだった雰囲気が、お寺のお坊さんのような雰囲気になっている。
「外を歩くのは疲れるんだよ。まあ今日は君が来るとわかったので出かけたが・・・」
「お手を煩わせ申し訳ございません。」
「いやこちらが勝手にやったことだ、気にしないでくれ。」
そういうと近くの絨毯に座った。
こちらにも、しぐさで座れと言われたのが、わかったので別の絨毯に座ると、小部屋の一つから壺とコップを持って女性が出てきた。
「まだ話があるので、とりあえず水だ。」
そういうとクレイステネスはコップで壺から水を汲むと一杯飲んだ。
俺たちの方にも別の壺とコップが用意された。
壺がくると、すぐにコリーダがコップで水を汲んで飲んだ。
すこし味わい飲み込んだ後ピュロスに目で合図した。
ピュロスはコリーダの使ったコップを受け取ると、それで水を汲み俺に差し出した。
俺はその水をわずかに口をつけ、それから話はじめた。
「話とは何でしょうか?」
その言葉にクレイステネスは頷くと問いかけてきた。
「まずは君の正体からだ。君は誰だ、アーシア君?」