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歪みのオルゴール

反響と雨と

作者: ゆっけ

『要らなくなったから捨てる。ただそれだけのことだ』



かつて父であった人の言葉が、少年の中でひとりでに反芻される。正常な思考を攪乱する。


忘れたくとも忘れられないその記憶。

少年は男の背に縋ろうとしたがあっけなく跳ね除けられる。




『とうさんッ……!』




絞るように発せられた声に、男が振り返る。彼の表情は固く、闇色の髪から覗く双眸は冷たく少年を見下して。




『今すぐに私の目の前から消えろ。私に子などいない。お前は、ただの───』





人形の、がらくただ。




「っう……」



否定の感情と、熱が喉の奥から溢れでそうになる。

強烈な拒絶が少年の中を支配する。

吐いたら楽になるだろうか。土砂降りの雨が、その音が、荒れる少年の心を映すかのよう。

雨天を眺めていた虚ろな目を閉じ、少年は俯き膝を抱えた。




信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない信じたくない。




(ぼくはどうして捨てられたんだ)


(巫女を殺せなかったから?)


(ちゃんとお仕事ができなかったから?)


(とうさんは、ぼくが嫌いになったのかな)


(たくさん失敗するできそこないだから)


(もう、会えないのかな)


(会っても、見えないフリをされるのかな……)



「こんなところで何をしているんですか?」



唐突にかけられた声に、少年の思考は制止する。声の主に一切目は向けず、俯いたまま無視をする。



(こんな酷い雨の日に出歩くやつ、いるんだ)



空は黒く淀み、絶え間なく大粒の雨が降りしきっていた。雨粒が地面にぶつかる度に、大きな水音が響く。

少年は軒下にいた為に、生温い雨に濡れることはなかったが、排水溝に収まりきらなかった水が、彼の足元に溜まっていた。



(土砂降りだからお前の声なんて聞こえない。はやくどこかに行ってくれ。放っておいてよ)



少年は暫く黙殺を決め込んでいたが、目前にいるであろう人物はその場を立ち去ろうとしない。飛沫が地面を叩く音が一層強くなってきた。



「雨、酷くなってきましたね」



呟かれた言葉と共に、水溜りが赤く染まる。少年は露骨に嫌そうな顔をし、目前の人物を睨もうと顔を上げる。追い払おうと啖呵を切ろうとしたが出来なかった。そこに曇天はなく、見覚えのあるような人物がそこに居た。



「風邪をひいてしまいますよ」



長く伸びた白金の髪に、空色の目。

白磁のような肌が傘の色を引き立てる。

その姿は、少年の記憶の中の彼女より、ずっと成長している。けれど、決して見間違うことはない。



「……おまえは…」



その人物はふっと目を細め柔らかく微笑うと、「お久しぶりです」とだけ言った。



***


翌日、少女は小さなカゴを持って少年の元に来た。

雨は止んだが、今だ分厚い雲が空を覆っていた。



「来るなって言ったのにまた来たの?」


「はい。昨日に『もう来るな』って言われたので。今日来ました」


「………帰ってよ。おまえの顔見たくないのに」



膝を抱えてぼやく少年。その傍らには、昨日少女がさしていた傘が開きっぱなしで転がっていた。



「じゃあ、ずっと下を向いてて下さい。そうしたらわたしの顔なんて見えないでしょう?」



少女はおもむろにしゃがむとカゴからタオルを出し、それを使い少年の体を拭きだす。思わず少年は、仰け反り少女の手を払い除けようとするが思った以上に力が入らない。ばたはだと手足を動かし抵抗したが、程なくして抵抗するのをやめ、大人しくなった。


柔らかい布地越しに伝わる温もりに少年は顔をしかめる。幻でも、亡霊でもないようだ。



「おまえ、死んだんじゃなかったの」


「生きてます」


「なんで生きてるの」


「月に生かされました」


「はぁ?」



苛立ったような様子を見せる少年に構わず、少女はてきぱきと手を動かす。少女は、少年が落ち着いた頃を見計らって問を投げかけた。



「どうしてわたしが死んだと思ったのですか?」


「どうして、って……」



少年が最後にみた、記憶の中の少女は。

帝国兵に襲われた王国騎士団のひとりを庇って、ひどい怪我を負っていた。

背中に刻まれた大きな裂傷からは、真っ赤な血が溢れていた。

これは助からないだろうと、誰もが思うような怪我を。



「あんなひどい怪我して、それでどっかの湖のなかに落ちたんだろ。そのあと行方不明になったって聞いたんだ。みんな死んだと思うに決まってる」


「そう。……だから、あの人たちは驚いていたんですね」



独り言のように少女が呟く。少年が怪訝そうに首を傾げると、少女は「気にしないで」と微笑った。



その日から、少女は一日も欠かすことなく少年の元へ訪れるようになった。

はじめは嫌そうな顔をし、少女をないがしろに扱っていた少年も、次第に彼女にきつく当たる頻度も減っていった。

少女と話している間、捨てられた時のことは思い出さなかった。

けれど、彼女が帰り、夜になると悪夢に悩まされ続け、少年の心はどんどん疲弊していった。



「ねえ、どうしてぼくなんかに構うの?」


「放っておけませんでした。ただ、それだけです」


「ふぅん……」


「どうしたんですか、急に」


「別に」



二人のあいだに微妙な空気が流れる。少女は首を傾げ、少年の顔を覗きこんだ。その表情は硬く、いつもよりも暗い。どうしたのだろうかと少女が考えていると、少年がぽつりぽつりと喋り出した。



「もう、これ以上関わらないで」


「放っておかれる方が楽なんだ」


「ぼくはおまえのこと、殺そうとしたんだよ」


「何回も、何回も」


「おまえは殺せなかったけど、なんにんも、たくさんの人を殺したんだよ」


「ぼくは、消えたほうがいいんだよ。だから死ななくちゃ」


「いらない子だから、必要とされてないからいいでしょう」


「ぼくが死ねば、みんな幸せになれるんじゃないかな」


「どうせみんな死んでいなくなるんだから、ぼくひとりくらい、どうってことないでしょ」



二人が話している最中、少年が少女のことを罵り、嘲るようなことは何度かあった。その中で、少年が己のことを卑下して不貞腐れることもあった。


この時は、それ以上に少年は酷く興奮していた。


少年は、自らの鼓動がどんどん早くなるのを感じた。

自分は何を喋っているんだと思った。

どうしてそんなことを口走っているのか理解できずにいた。

何故少女の前でこんなことを言っているのかと驚いた。



自分は、誰に問うているのかと苦悩した。



混乱する脳を完全に置き去りにし、軋み歪んだ少年のかなしみは、絶えることなく吐き出される。



「ぼくなんて、いなくなればいいんじゃないかな」


「ひとつ。いいですか?」



ふいに、少女が口を開いた。



「あなたがいなくなったら、あなたをずっとみてきた人は悲しむと思いますよ。……あの人は、あなたのことを心配していました」



少女が指した人物が誰であるか、少年は一瞬で理解し、直後否定の感情が一気に沸き上がる。



「いい加減なこというなよ。とうさんは!!アングラーは!!ぼくのことをいらないって言って捨てたんだ!!ぼくが役たたずだから、ただの人形だから、なのに心配するなんて」



少女は何も言わずじっと少年を見据えている。

少年の体が震えだす。ひどい吐き気が込み上げてくる。気分は酷く悪く、胸は痛み、不安はとめどなく吐き出される。その度何故か、淀んた気持ちは薄れていった。


少年が落ち着きを取り戻しはじめたころ。少女は少年の手を握り、吐露される思いをただ聞いていた。少年が気付かぬ間に、雨が降り出していた。



「……降ってきましたね。酷くなる前に、雨宿りしましょう?」



腫れた目を隠すようにそっぽを向く少年。少女には一切顔を見せずに、手を握り返してそれに応えた。雨足が着実に強くなる。



「ずっと、我慢してたんですね。…この雨の中じゃ、何を言ってもわたし以外の誰にも聞かれません。話すなら今のうちかもしれませんよ」



冗談を交えながら、少女は少年の手を引いた。会った日と同じ真っ赤な傘をさし、少年をその下に招き入れる。少年はむくれたまま歩き、少女は穏やかにゆっくりとしたテンポの旋律うたを口ずさんだ。

傘の中で雨音と歌声がこだまする。


いつも耳障りとしか感じなかった少女の声。



(──巫女こいつの声──)



少年は、何故今まで気にかけなかったのかと不思議になるくらいに、少女の声が美しく聞こえた。


傘の中を満たす調べは、二人が屋根の下にたどり着くまで続いた。



***



数日間、小さな家の中で二人で過ごした後。


少女は、少年の手を引き一緒に住もうと語りかけた。

かつて殺そうとしていた相手からの、思いがけない提案。

少年は難色を示し、断った。

少女はめげず食い下がり、少年が首を振っても粘り強く彼を説得した。

根負けした少年は少女と共に住むこととなった。


はじめは、王国軍の者が居を置くところに。

また暫くして、各地を点々と。

二人が暮らし始めてから半年程たったころ、少年はいつものように少女の元へと来た。



「あ。ヴァイド、おかえりなさい」


「ただいま、アサ!ねえ見て、綺麗な花があったからさ、作ってみた!」



少年は少女の名を呼び、無邪気に笑いながら、彩り豊かな花冠を少女に見せる。

少女は器用に編まれたそれを少年から受け取ると、手に取って眺めた。



「とても上手に出来てますね」


「ほんと?嬉しいよ。…これ、とうさんによくあげてたんだ」



少年は花冠を少女の頭に乗せ、懐かしむように、苦しそうに笑う。半年前に胸の内を吐露したとはいえ、彼の中のわだかまりは消えはいない。



「……ヴァイド」



少女が表情を曇らせ少年の名前を呼ぶと、彼はやや硬くはにかみ、少女の手をとり縋るように握る。少女がその手を握り返すと、少年は頬を軽くかき照れくさそうに笑った。



「ごめん。暗くなっちゃった」

「いいえ。いいんです」



少女が少年の頭をわしゃわしゃと撫でると、彼はあどけなさの残る顔をくしゃりとさせ嬉しそうに笑った。



「アサって、かあさんみたい」


「わたしとヴァイドじゃ、そんなに年は離れていませんよ?どちらかといえばお姉さんです!」



少女が主張すると、「なんで胸を張るの」と少年は笑う。



「ぼくから見たら、かあさんなんだよ。ねえ、かあさんって呼んでいい?」


「いいですよ。何回でも、呼んでください」


「うん!」



少年はふにゃりと笑むと、親に甘える子のように少女に抱きついた。少女は彼を慈しむように抱き返すと、その背を優しくなでる。



「ふふ。ヴァイドはいい子ですね」


「そうかな?…ねえ、かあさん。ぼくの秘密を教えてあげる。──ぼくはね、アングラーのことをとうさんと呼ぶけど、あの人はぼくの、ほんとうのとうさんじゃないんだ」



少年は語った。


元々ただの人形であり、死神アングラーに命を与えられて動き出したのだと。



「あの人はぼくに、たくさんのことを教えてくれた」



少年は、懐かしい記憶を手繰り寄せた。



言葉を少し覚えたころ、アングラーはひとつの本を手渡してきた。


幼き頃の少年が、これはなにかと舌っ足らずに聞くと、いいから開けと促された。開いた本には、彩り豊かに可愛らしく描かれた絵と申し訳程度の簡単な文章。


男は絵のひとつをひとつを指さして、少年がまだ覚えていない言葉を読み上げる。


言葉をひとつ覚える度に、少年は自慢げに胸を張り「どうだ」と言わんばかりに男を見上げると、男は穏やかに微笑って少年を褒め、彼の頭を撫でた。



「とうさんは優しかったよ。とても」



少年の言葉に、少女は短く相槌を打つ。



「元が人形だからって悩んでたときも、気にすることはないって言ってくれた。大事な息子であることには変わりないって。でも、いつかはもう忘れてしまったけど、とうさんは急に変わったんだ」



柔らかな笑みは消えて、無表情に。

常に何か考え込んでいるような、思い詰めた顔をするようになって。

人の命を奪うことを嫌がっていたのが一転して、躊躇ためらいなく大鎌を振るうようになって。



「その頃くらいに、とうさんに影の力を貰ったんだ」



ちちおやに人を殺せと命じられたから、

なんの疑問を持つこともなく、少年こどもはその力を振るった。

何人もの命を奪った。奪おうとした命の中に、少女もいた。


特に、少女を殺せと念を押されて、何度も少女を襲い、殺そうとしたが、結局殺せなかった。


そして、捨てられた。



「…とうさんのことを信じてたからって、バカなことしたよね。今更どうにもならないけど」


「……そう。成してきた行いで、苦しみ、気負っているのですね。今も、いなくなりたいと思ってる?」


「ううん。弱音はいてる場合じゃないもん。まず、とうさんがどうして変わってしまったのか知らなきゃ。それで、人の命を奪うことをやめさせるんだ」



少年が真剣な眼差しだった。

少女は一瞬目を見開くが、少年がそれに気付く前に微笑んだ。

表情を隠した上で、穏やかな口調で語りかけた。




「あなたは強い子ですね。…ヴァイドのことをひとつ知れたから、お返しに、あなたにわたしのことを教えてあげる」


「なに?」


「わたしのほんとうの名前。これを知る人は、ほとんどいません。一度しか言わないから、よく聞いておいてね」


「うん!」


「じゃあ、言いますよ。わたしの名前は───」



***



紅く色付く満月と、妖しげな色に染まる夜空の下。少女が好んで訪れていた湖の真ん中に、少年のよく見知った男が佇んでいた。降り注ぐ月の光が、彼を照らしている。



「──おかしいね。今日は、巫女と会うはずだったのだが」



少年の方に振り返らずに、男がぼやく。



「かあさんは来ないよ。代わりに、ぼくがおまえと話しにきた。ここに来たら、話せるって彼女に聞いたから。」


「……巫女め。ヴァイドには私の話はするなとあれほど言っておいたのに。やはり喋っていたのか」


「かあさんを怒らないでね。ぼくが無理矢理、聞き出したんだから。そんなことより、教えて欲しい。かあさんに……アサの体に何が起こってるのか」



暫し男は沈黙した後に少年の方に振り返る。いつも浮かべている微笑はなく、代わりに穏やかな表情が少年の目に映った。



「巫女は、月神カガリと特別な契約を交わしている。彼女が生きられるのは19まで。契約が切れかかっているのだろう、感覚はとうに失っている様子だったよ。体を満足に動かすことも難しくなるだろうね」


「……それ以外で知っていることは?」


「あるが、私は語る気はない。知りたくば、私でなく巫女に直接聞いた方がいいだろう」


「そっか」



会話が途切れ、数分ほど沈黙が続く。男が少年から目線を外すと、彼に背を向けた。



「話したいことはもうないんだな?そろそろ失礼するよ」


「待ってよ。聞きたいことがあるんだ」



男がその場を去ろうとするのを、少年が遮った。

男は振り返らずにその場に立ち止まる。



「いつか、かあさんが言ったんだ。とうさんが、ぼくのことを心配してるって。かあさんに、ぼくのこと聞いてたの?」


「……私からは、聞いていないよ。巫女が勝手に喋っていただけだ」



男は闇の中に足を踏み入れ、そこで少年の方を振り返った。



「私より、巫女の方がお前のことを気にかけていた。彼女と話す時には必ずと言っていいほどお前の話をよくしていたよ」



それだけいうと、男は闇の色と調和し消えていった。

湖畔に立つ少年は、空を仰いで顔を両手で覆う。



「あーもー。かあさんひどい事するなぁ。ぼくのこと、とうさんにはいうなって言ったのに」



少年の目の奥が熱をもつ。感情に呑まれまいと少年は自分の頬を軽く叩くと、湖畔を後にした。



***



少年が家に帰ると、聞きなれた歌声が辺りを満たしていた。

声が最も響いている部屋に入ると、少年はベットに横たわりつつ歌っている少女の傍らにたった。



「かあさん、今いいかな?」



少女が快く首を縦に振るのを確認すると、少年はベットの縁に腰を降ろす。先刻、父と慕った男に会えたことと、話したことを少女に話す。



「うーん。わたしのことは言わないでくださいってお願いしたのに。結局言ってしまったんですね。あの人も、あなたも」


「それはかあさんも一緒でしょ。アングラーにはぼくのことを話さないでって言ったのに」


「ごめんなさい。─あの人、ヴァイドのことをとても気にかけていたから、喋ってしまいました」


「なにそれ。あいつ、ぼくのことなんてどうでも良さそうな感じだったけど」


「そんなことはありませんよ。わたしがあなたの話をすると、いつも口数の少ないあの人が、何度もあなたの様子を確認していましたよ。アングラーさんは、心配症なんです。あなたが眠っている間にも、彼はあなたのことを見に来ることもありました」


「ふぅん。……とうさんは勝手だね。あんな突き放され方したから、もう会っちゃいけないもんだと思ってたのにさ」



少年が口を尖らせ不満そうにすると、少女は苦笑しつつ彼をなだめるように頭を優しくなでた。

紅の月が二人を照らす。妖しげな色をした空は、だんだんと暗く澱んた色に染まりかけていた。数ヶ月前まで空を満たしていた星はどこにもない。



「かあさんが大好きな星、いなくなっちゃったね」



窓の外を眺めながら、少年がぽつりと呟く。

少女は俯いたまま答えた。



「……そうですね。今はどこにもないですけど。また、綺麗な星が見えるようになりますよ」


「いつ?」


「──だいたい、ひと月後くらいです」


「かあさんは、そのときに死んじゃうの?」



少年の金色の目が、少女を捉える。彼女は困ったように曖昧に笑うと、少年の頬に手を添える。



「………かあさん?」



真っ直ぐに見つめてくる少女に、少年はたじろぐ。

彼女は、今にも泣き出しそうな表情で、少年に言い聞かせた。



「ヴァイド。あなたにお願いしたいことがあるの」



囁く声は、震えていた。


少年の目にうつった少女は、気丈に振舞う【母】の姿ではなく、脆く崩れそうになる【少女】ひとりの姿。


その姿は、かつて水面の向こうから睨みつけてきた、少年おのれの姿と痛すぎる程に似ていた。




***



『祭壇まで連れていって欲しい』



少女ははの願いを叶えるために、少年こどもは彼女を連れて、暗い砂利道を進んでいた。


空は暗く澱んだ色で、大きな亀裂が目立つ。

月は一層紅みを増していた。


もしも、空が、天井が落ちるように崩れ落ちたら。全部押しつぶされて、壊れて跡形もなくなるのだろうか。


遥か上空を仰ぎみながら、少年はぼうっと考える。



「……ヴァイド……?」



少年の腕に抱きかかえられた少女が、弱々しく彼の名前を呼ぶ。少女の澄んだ空色の目は濁り、彼女が纏っている衣装が揺れる度、消えかかっている体が見え隠れした。



「ごめん。起こしちゃった?」


「いいえ…いやな夢をみてしまったので。……祭壇についたら、わたしを降ろして。そうしたら、すぐに離れて」


「うん。わかってる」



再び目を閉じ、夢の中に落ちた少女をみやり、深い溜息をつく少年。ふと、少女の言葉が彼の脳裏をよぎる。



──わたしが願ったせいで、時間が巻き戻るようになりました。

世界を歪めてしまいました。


巫女は、死ぬ間際に神様に会えるんです。

そのときに、神様は巫女の願い事を叶えてくれるんです。

わたしは、世界を元に戻してくださいと願います。

命と引き換えに、わたしは願いを叶えます。


消えるのは、わたしひとりだけ。世界は元に戻ります。

みんなには元に戻った世界で、生きて欲しいのです。


わたしがいなくなったことに気付く人もいるでしょう。

でも、いつかは忘れます。

わたしは、忘れられたほうがいいんです。



ヴァイド。わたしが消えることは──



「……ごめんね、かあさん。かあさんは、誰にも言わないでって言ったけど。そのいいつけは守れないよ」



少年は、彼の腕の中で死んだように眠る少女をみつめながら、己に言い聞かせるように呟く。空に入る亀裂はどんどん広がり一部は今にも崩れ落ちそうになっている。少女の体も、規則的に透けては戻るようになっていた。



「かあさんがいなくなったら、かあさんをずっとみてきたひとは、──あなたの大好きなひとは、悲しむよ」



砂利道が、石造りの足場に変わる。

少年の目前には、何度が訪れたことのある景色が広がっていた。

広い湖と、水面にかかる立派な祭壇。少年はその中央まで歩み、そこに少女をそっと降ろすと、彼女はその目をゆっくりと開く。



「……ごめんね、無理を言って。ヴァイド。あとは、もう、ひとりでも大丈夫」



少女は苦しそうに笑いつつ柔らかい眼差しを少年にむける。

彼女はよろよろとふらつきながら立ち上がると、少年に背を向け祭壇の端から湖の水面に降り立ち、その中心まで歩きだす。



「……かあさん」



少年の呼ぶ声に、少女は立ち止まることも、振り返ることもしなかった。

少女は肩を上下させ、息を整える。

足を踏み出すことに、蹴られた水面に光の花が咲く。

少女が湖に立ち、大きく息を吸って、最初の一音を空高く歌い上げた、次の瞬間。湖全体が淡く輝き出した。同時に、空が崩れ始める。



「───ッ!」



少年は少女から目を逸らし、踵を返して駆け出した。

少女からどんどん離れていっているのに、彼女の歌声はどんどん大きくなっているように感じた。



─ごめんね、かあさん。

すぐに戻ってくるから。

いいつけを守って、いい子でいたいけど。

それじゃあ、かあさんは、悲しいままだから。



祭壇から離れ、丘を降り、城下町に足を踏み入れる。


少年は人と人の間を縫って、必死に青年の姿を探した。

彼と同じ制服を着た騎士たちが、混乱する人々を落ち着かせようと駆け回っている。



「はやく、はやく見つけないと」



うわ言のようにつぶやきながら、少年は青年を探す。

鼓動が激しくなる。もし見つからなければ、少女は───


少年は胸を抉られたような気持ちになる。ふるふると頭を横に振ると、遠くに青年の姿を見付けた。周囲に指示を出し、忙しなく動き回っている。茶金の髪に紅蓮の瞳、間違いない。

少年は足早に青年に近付くと、その腕を思い切り引く。

青年が驚いて振り返るなり、少年は震える声で告げた。



「かあさんが、アサが───」



青年の顔色が一瞬で変わる。彼は近くにいた騎士に手短に指示を出すと、少年の方に向き直る。

地面にへたりこんでしまった少年に、手を差し伸べ言った。



「行こう。アサのところへ」

「……うん」



青年にぐっと手を引かれ、少年は立ち上がる。

二人は、少女のもとへ。



***


祭壇へ向かう途中、世界中に絶え間なく響いていた少女の歌声が途切れた。少年は最悪の事態になったかもしれないと恐れ、思わず青ざめ顔を歪める。

少年が不安になったのを見透かしたかの如く、彼の先を走る青年は振り返らずに、凛とした声で言い切った。



「アサは大丈夫だ、絶対に。祭壇までもう少しだ。足を止めず、進もう」



堂々とした言葉に、少年の心は自然と落ち着いた。

青年の背中を追いながら、少年は思わず呟く。



「……かあさんが言ってたとおりだなぁ」



好きになるわけだ。と静かに感心した。




二人は走り続け、ようやく祭壇にたどり着いた。

湖の真ん中で、少女はうずくまって体を抱えていた。どうにか間に合ったようだ。



「はやく、アサのところへ」



少年が促すと、青年は驚いた顔をして振り返り、一緒に彼女のもとへ行くのではないかと聞こうとした。が、少年の真っ直ぐな眼差しに気付くと、頷いた。


青年が少女へ歩み寄っていくのを確認し、少年は祭壇の反対側、湖のほとりへと移動する。


少年は、安堵に包まれていた。


抱き合っている二人を見守り、静かに胸を撫で下ろした。

ほどなくして、少女が最も好み、よく歌っていた旋律が世界を満たす。

崩れかけていた世界が再生をはじめた。空も月もかつてあった姿に戻り始め、星が姿を現し、水面から空へと打ち上がる。星の雨だ。

幻想的な景色の中で、少年は少女と目が合った。



『ありがとう』



少年が、今まで見た中でも飛び抜けて酷く綺麗な笑顔。

目の前の光景よりも、残酷な程愛おしく感じた。

言葉と笑顔が、少年の中に反響するのと同時に、彼の頬を、熱いものが伝った。

少女は光となって散り、空へと去ってゆく。

少年は、この日はじめて、声をあげて泣いた。



彼が見上げた先には、少女の愛した空が広がっていた。




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