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昼休みのチャイムが鳴って一分。英語教師が出て行った途端に、教室の中は騒がしくなった。
朝から降り続く雨のせいで、教室の中もじめじめとしていて、何となく息苦しい。今年の東京は、珍しく梅雨らしい雨が続いているらしい。
いくつも水溜りができているグラウンドを横目に見下ろしつつ、鞄からコンビニ袋を引っ張り出す。前の席の友人が、何の音かと振り返った。
「どうした遊太、今日は弁当じゃないのか」
「それがさ、昨日から親が寝込んじゃってて」
「あー、なんかずーっとゴタゴタしてたもんな」
春先に入院した祖父のお見舞いだとか、看病だとか、葬式だとかがあれこれ続いた末に、母親は家事のストライキを宣言した。
出前の寿司を囲んだ柏木家臨時家族会議の結果、洗濯を自分が、掃除を父親が担当することになったものの、料理に関してはどうにもならなかったのだ。
「昼はしばらくサンドイッチとかだなあ」
「ちゃんと弁当買った方がいいんじゃねえの?」
「ヤだよ折角の臨時収入じゃん」
一学期が終わるまで、残り二週間の昼食代として手に入れた金額の半分は、既に来月のゲーム代に計上されているのだ。
そんな事情を察したのか、友人は呆れた表情で自分の弁当を広げ始めた。
「んなこと言ってると、背ェ伸びねえぞ」
「余計なお世話だっての」
四捨五入すれば百七十センチあるんだし、ほぼ平均身長だと言っても過言じゃないはずだ。
†
サンドイッチはものの数分で食べ終わってしまい、野菜ジュースを飲みながら、友人の弁当をぼんやりと眺め続ける。
「いちおう言っとくが、やらんからな」
「いいじゃん減るもんじゃないし」
「減るだろ普通に」
さもありなん。やはり食費の見直しを検討する必要があるだろうかと、脳内で予算委員会を開催する。
「そういや、昔はあの爺さんの家によく遊びに行ったっけな」
「あ、ハカセも覚えてたか」
「散々遊んだだろ。忘れられないっての。あとハカセじゃなくて博士な?」
友人の苗字は大木戸である。名付けの由来はまったく関係ないらしいのだけど、古くからの友人はみんな、彼をハカセと呼んでいる。
まあ、それはそれとして。
「爺ちゃんのこと覚えてるなら、都合がいいかな」
「ん? 何の話だ?」
鞄の中に手を突っ込んで、家からこっそり持ってきた黒い物体を机の上に置く。
手のひらサイズの四角いそいつは、その一辺の隙間から緑色の基盤と金色の端子を覗かせている。
「こいつなんだけどさ」
「ゲームのカセットだよな。それもかなり古めの、昭和な感じの」
──がたり。
近くで物音がして、僕とハカセは顔を上げた。しかし、教室の中を見回しても、談笑したり黙々と弁当を食べたりしているクラスメイトの姿があるだけで、何があったか判断がつかなかった。
どうせ大したことじゃないだろうと、僕たちはカセットへと視線を戻した。
「爺ちゃんの遺品を整理してたら、オレ宛ての封筒が出てきてさ。その中にあったんだ」
「このえらく達筆なのは、あの爺さんの字だよな」
「たぶんね」
表側と思われる面には大きな白いシールが貼られていて、その上半分にタイトルらしき文字が書かれている。
祖父のことを思い出していたのか、ハカセは懐かしそうにカセットを観察していた。
「んー……隆志って書いてあるのか? 誰だよタカシって」
「あ、それ爺ちゃんの名前」
「今の今まで、知らんかったわ……」
まあ、爺さんとかジジイとか、そんな呼び方しかしてなかったし、名前を知らなくても当然だろう。
ハカセは弁当をつつきながら、達筆すぎる題字を読み解いていく。
「てことは……隆志、の、挑戦状、か?」
──がたん。
またどこからか、椅子か机が揺れたような音が聞こえた。
再び視線を巡らせる。僕たちと同じく音に気付いた何人かと「違う」「俺じゃない」と手を振り合って、疑問に思いつつ話を再開する。
「挑戦状、ねえ。クリアできるもんならしてみろよ、ってことか?」
「どうかな。爺ちゃんはみんなを引っ掛けるのが好きだったから」
「ああ、あったな、色々……」
思い返せば、祖父は筋金入りの悪戯好きだった。
実家を訪れるたび、不意を付いてやってくる仕掛けや謎かけはどこか宝探しめいていて、今でもはっきりと、祖父の笑顔と共に思い出せた。
何にしても、このカセットが動くゲーム機の本体が無ければ確かめようが無い。祖父の家には本体があったのだろうけれど、数年前に体調を崩した頃からいろいろと処分してしまっていたようで、生憎と見つけることができなかった。
もしかしたらハカセなら、と思ったものの、友人は残念そうに首を振った。
「うちにも無いな、たぶん」
「そっかー」
「うちの親ゲームやらねえんだよな」
それなら仕方ない。他を当たってみようとカセットを鞄の奥に放り込む。
一瞬、刺すような視線を感じた気がして、僕は顔を上げた。
けれども僕とハカセの近くにいたのは、猫背で弁当を食べている、一番前の席の女子だけだった。
†
結局、放課後になっても古いゲーム機を持っている級友は見つからなかった。
「気になるけど、これだけのために本体買うのもなー」
「っつーか、ゲーム屋で売ってるのか?」
ふたりで顔を見合わせて、揃って「さあ?」と首を傾げる。
ハカセはカセットを携帯で撮影してから、スポーツバッグを肩にかけた。
「あんまり期待できねーけど、先輩とかにもちょっと聞いてみるか」
「あー、頼むわ」
「いいってことよ。俺も気になるしな」
部活動のために体育館に向かうハカセと分かれて、帰宅部である自分は下駄箱へと直行する。
かなり弱くなってきたとはいえ、放課後になっても雨は止んでいない。仕方なく、折り畳みの傘を広げて外に出た。
ぬかるんだグラウンドを避けて校舎沿いに移動する。しばらくして、後ろから誰かが走ってくる足音が聞こえてきた。
泥水が跳ねても困るからと、壁際に寄って立ち止まったものの、その足音はすぐ近くで止まってしまった。
「か、桂木くん……だよね?」
惜しい、ちょっと違う。聞き覚えのない女子の声に心の中で突っ込みを入れつつ、他に誰も居ないことを確認してから振り返る。
ビニール傘をこちらに傾け、猫背気味になって見上げてくる女子は、やはりこの三ヶ月で話した記憶が無い相手だった。
短い髪の毛は湿気のせいかあちこちくるくるとはねている。
度の強そうな眼鏡はレンズが重いのか、それとも鼻と合っていないのか、ちょっとずり落ち気味になっている。
上目遣いは目の悪さと相まって睨みつけるような感じだけれど、垂れ目とそばかすが迫力を打ち消している。
相変わらず自分の方をじっと見つめている彼女の様子に、どうやらこれは人違いじゃないらしいと判断して。
「いや、オレ、柏木だけど」
「えっ?」
心底驚いたように目を見開かれる。ぽかんと開いた口が無防備だなあと思っていると、間違いに気付いた彼女は勢いよく頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
彼女の動作に連動してビニール傘が振り下ろされ、弾かれた水滴が全身を直撃する。ちょうど横を通り過ぎていった女子二人組が、「──告白?」「振られ──」とか小声で話すのが漏れ聞こえてきた。
被害甚大である。このままだとさらに被害が拡大しかねない。
「とりあえずさ、歩きながら話さない?」
「は、はい!」
跳ね上がったビニール傘の攻撃は、なんとか距離を取ってかわすことができた。
彼女に関する記憶を引っ張り出しながら、自転車置き場を通り抜け、塀に沿って正門に向かう。
「オレは柏木遊太、出席番号は十番。って、同じクラスだよな?」
「あ、はい、左様で」
「確か、一番前の席の……悪い、オレも名前覚えてないや」
黒板の正面で、猫背になって授業を受けている姿は見慣れているけれど、これまで話す機会は無かったのだ。
鞄と傘で両手が塞がっていたので、表情でどうにか申し訳なさを演出しようと試みる。しかし、彼女はいっそう恐縮したように縮こまってしまった。
「い、いえ、いえいえ、私みたいな木っ端女子高生の名前など、か……えーと」
「カシワギ、な」
「か、柏木くんのお耳に入れる程のものじゃ……」
段々と小声になっていく木っ端女子高生さんの姿に、若干の面倒くささを感じつつフォローを入れる。
「だから、そこはお互い様だってば。なんて名前だっけ?」
「鷹匠晶でございます、はい」
おお、何か強そうな響き。タカ、ジョー、アキラ。
という感想は心の内に留めておく。ともあれ、これでようやく会話のスタートラインに立てた気がする。
「んで、鷹匠さん。オレに何か用事あったん?」
「そ、そうです。そうでした」
彼女の畏まった様子に、さっきの女子高生二人組が脳裏をよぎっていく。
いやいや、名前間違えてたし、この流れで告白ってのは無いだろう。
「……無いよな?」
「柏木くん?」
「お、おう!」
立ち止まって、彼女の方に向き直る。しばらく言いよどんでいた鷹匠さんは、意を決したように一歩近づいてきた。
「そ、その……い……」
「……い?」
「今から、私の家に、来ませんか?」
雨もそんなに強く降ってないし、耳はいい方だ。聞き間違いではないし、どうやら彼女の言い間違いでもないらしい。
何秒か考えて、それでも足りなくて長考タイムへと突入したところで、鷹匠さんは困ったような表情を見せた。
「だ、駄目ですか……なら、ちょっと見せて貰えるだけでも」
「いやいや、ちょっと」
一体全体、彼女は何をご覧になりたいというのか。
卑屈そうな雰囲気はそのままに、上目遣いでずい、と近づいてくる鷹匠さんから一歩、いや二歩離れる。勢いに気圧されたわけではなく、単にビニール傘が邪魔だっただけである。
「だったら、は、話だけでも……ッ」
「ちょ、濡れるって。分かったから、ちょっと離れようか鷹匠さん!?」
†
「この度は大変申し訳なく……」
「いや、いいけどさ」
正門を抜けて、幹線道路沿いのバス停まで歩くこと数分。ようやく落ち着いてきた鷹匠さんに、改めて話を促してみる。
「さっぱり意味分からんし、最初から説明を頼むよほんと」
「最初から、ですか。そうなると、昼休みから、でしょうか」
「じゃあ、そこからで」
「今日の昼御飯は卵焼きが美味しくできたんで、なかなか喜ばしいなあと思ってたんですけど、そんなときに後ろからいつもの騒がしい声が聞こえてきまして」
「それって、オレたちのことかな」
そもそも、卵焼きの下りは必要だったんだろうか。
記憶を掘り返すのに集中しているためか、彼女は目を閉じて、額に人差し指を当てて話を続けていく。
「まあどうせゲームとかテレビとか大したことのない話だろうと思っていたら、案の定、学食だの弁当だのと大声で話してまして」
「いや、そんなに煩かったかなあ?」
「そうしたら、何だか聞き捨てならない単語が聞こえてきたのですよ」
鷹匠さんは目を開けて、またこっちを見上げてきた。
額に当てていた人差し指がすっと動いて、僕の鞄に向けられる。
「古いゲームカセットだとか、挑戦状だとか」
「ああ、なるほど……」
彼女の目当てが何なのか、やっと理解できた。爺ちゃんが遺した黒い物体に、鷹匠さんは興味を示しているのだろう。
どうしたものかと思案し始めたところでちょうど、駅へと向かうバスが目の前に停車した。
「オレ、これ乗るけど」
「えっと、私もです」
そんなわけで、続きはバスの中で、ということになった。
†
学校から浅ヶ谷駅まで、バスでおよそ十分。タイミングが良かったのか、車内は小声で会話ができる程度には余裕があった。
僕の隣に陣取った鷹匠さんは、僕の手にある黒いカセットを食い入るように見つめている。
「……どう?」
「そうですね。ファミコン用のロムカートリッジで間違いないと思います。ちょっと気になるところもありますけど」
んんー、と小さく唸りながら、顔をこちらに向けてくる。
「や、やっぱり、うちに寄ってきませんか」
「またそっちに話飛ぶんだ……ってか、もしかして本体あるの?」
ええ、はい、と頷いてから、鷹匠さんは小首を傾げた。
「言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないよ」
「じ、実機と互換機とありますし、それで動かなければ、確か初期型もあったはずなので」
なにその充実のラインナップ。なんでそんなに揃ってるの。というかそんなに種類あったんだ?
意気込む彼女の言葉にどう返答していいか分からず、鞄を拾い上げてカセットを放り込むと、それを見た鷹匠さんが、眉根を寄せて顔を近づけてきた。
「貴重な物かもなので、もうちょっと丁寧に扱った方が」
「あ、そなの?」
「そもそも精密機器ですし」
彼女の表情は真剣だった。確かに、カセットが入っていた封筒はえらく厚手だったなあ、と記憶を振り返る。
だったら、多少かさばっても封筒に入れたままの方が良かっただろうか。
「それはそれとしてさ、鷹匠さんの家ってどこなの? 電車とか、あんまり遠いのは勘弁なんだけど」
「えっと、駅から歩いて、五分くらいです」
来てもらえますか、と重ねて問われては、断る理由も思いつかなかった。