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神様の悪戯

作者: ジュン

〔1〕天童秀一


 天童秀一はピアノ弾きの才能を天より授かった。彼は三歳の頃から母親の趣味でピアノを習うことになり、講師の厳しい指導の元で見る見る内にその才能を開花させていった。

 ダイヤの原石を磨いたのは講師である斉藤恭二という四〇半ばの男だった。恭二も秀一の能力を恐れていた。楽譜を見て一時間もすれば暗譜をしながらの演奏が可能で、ピアノを弾くのに適した、細く長い指を持った秀一は正しく音楽の神に愛されし子であった。

 四歳、五歳、六歳――歳を重ねれば重ねるほど、秀一の技術は向上していく。ショパン。ベートーベン。ヴィバルディ。ブラームズ。数々の名曲達を腱番で華麗に奏でる秀一。

 秀一は天才だった。誰もがそう信じて疑わない。

 恭二は、秀一の指導に命を燃やしていた。

秀一は若干一六歳にしてプロの門出を迎えた。難しい譜面を流し読みしただけで演奏してしまう秀一の天武の才能に誰もが憧れた。何もかもが完璧だった。

美しいのは秀一の演奏だけではない。

黒く艶やかな髪。高く整った鼻。くっきりとした二重瞼。すらっと伸びた背筋。確かな音感。痩身で背が高い彼は容貌も華麗であった。まるで人形のように整った彼の顔立ちは見る者の心を魅了した。

だが、恭二は悩んでいた。

この青年はどうしてピアノの前で笑わないのか?

華麗なるピアノ弾きである秀一はピアノを弾きながら微笑んだことがなかった。先日行われたコンサートでも、グランドピアノの前でカノンという名曲を奏でながら、人形のような形相で腱番をじっと見ていた。まるで感情を喪失してしまったかのような無表情な姿に恭二は一種の不安を覚えた。

まさか秀一はピアノを愛していないのではないか。

秀一がまだ小学生だった頃、彼の自宅でのレッスン中に恭二はこんな質問をしたことがある。

――君はピアノが嫌いなのかい?

 秀一は黙然とモノクロ腱番を見据えながらこう言った。

――別に。嫌ってはいません。けど楽しいって思ったことなんて一度もない。

――ならどうして君はピアノを弾くんだい?

――母さんが弾けってうるさいから。

 それはある種の問診のような会話だった。秀一は壊れている。恭二は思った。その才能を含めても異常としか言わざるを得ないのだが、恭二は、雇われの身。秀一の母親が自分のレッスンを望むのなら、彼はそれを受け入れなければならない。

 秀一がいくらいやだと言おうとも、恭二は彼にピアノを教えなければならなかった。まず第一に秀一は弾きたくないなどと一度たりとも口にしていなかったのだから、恭二にはどうしようもなかった。

 そして、そのような会話が二人の間で交わされてからも、秀一はピアノを弾き続けた。授かった才能を棒に振るうのを恐れていたのは秀一ではなく、周りの人間だったのだ。

――ピアノなんてつまらない。

 コンサートが終わると、秀一は口癖のようにそう言った。秀一の感情とは裏腹に観客達は一六歳の天才ピアニストに盛大な拍手を送った。

 誰もが彼の成長を信じて止まなかった。


〔2〕


 居間の傍らに設えられたアップライトピアノが響いた。幾十にも重なる和音が赫怒している。バーンという叩かれたような音が轟く。秀一は怖ろしく醒めた眼で腱番を睨みつけていた。

 一週間後のクリスマスイヴには、またコンサートが開かれる。退屈でつまらないコンサートが。何百人という観客を開場に向かえ、自分はまたつまらないクラシック音楽をつまらない楽器で弾くことになる。

「秀ちゃん? どうかしたの?」

 ピアノの轟音に驚いた母親が気遣うように居間に入ってくる。秀一は陰険な顔付きで、適当な返事を返した。

「別に――」

「でも、今凄く大きな音が聴こえたわ。いつもの秀ちゃんらしくない汚い音だった」

「別にって言っているだろ。ごめん。もうすぐコンサートがあるから邪魔しないでくれるかな」

 秀一が冷たく言い放つと、母親はそそくさと居間から出ていった。

 残された秀一は、虚ろに譜面立てに開かれたショパンの幻想即興曲に視線を投げる。白い譜面の中を泳ぎまわる御玉杓子の群れが妙に忌わしい。

 壁掛け時計に視線を移すと午後二時を廻っていた。後三十分もすれば恭二が訪れるだろう。秀一は一層冷たい眼になる。死んだ魚のような眼で腱番の前に腰を下した。

「くだらない」

 秀一は独り言を零した。彼は物心ついた頃にはもうピアノの前に座っていた。そして小学生になる頃にはすでにピアノを嫌っていた。秀一には選択肢はなかった。彼は現実の世界で迷子になっていたのだ。

 誰を怨めば良いのだろう。いや、誰も悪くないのかもしれない。悪いのはこのような才能を与えた神だ。それならば自分は神を呪おう。秀一は天武の才能を与えた神に謀反したのだ。

 秀一は自分の為にピアノを弾いているわけではない。かといって大勢の観客の為などと偽善の心なども持ち合わせていなかった。

 ただ、親が弾けというから弾いている。親が死んだらピアノなど捨ててしまおう。秀一は密かに決意をしていたのだった。

 しばらくすると、チャイムの音が響いた。しかし、秀一はピアノを演奏していた為にそれに気づかない。恭二は秀一の邪魔にならぬように静かに居間に入った。秀一の流麗な音楽に恭二は耳を傾けた。

 秀一の演奏する幻想即興曲が鳴りやむと、恭二は拍手を始めた。

「――遅かったですね」

 秀一は醒めた口調で言った。時計の針はもう三時を過ぎている。いつもなら時間より早く来る恭二なのだが、今日は遅くなるという連絡さえ来ていなかった。

「私のピアノ教室に習いたいというお客さんと話をしていてね。それで遅くなったんだ」

「そうですか」

「さぁ、早速始めよう」

 言って、恭二は椅子に座った。秀一は再度、演奏を始める。宵時が近づく頃、秀一の美しい音楽は止まった。


〔3〕


 一二月二四日。クリスマスイブの夜、タキシード姿の秀一はコンサートホールの舞台裏でいつものように譜面を読み返していた。垂れ幕の隙間からこっそりと客席の覗くと、そこには大勢の恋人達の群れや家族連れのお客が座っている。秀一は、虚ろな面持ちのまま自分の両手に目をやった。

 この指があるから自分はピアノを弾かなければならない。指など無ければ、母親もピアノを弾けなどと言いはしないだろう。

 秀一は今すぐにも十本の指を刀で斬り落してやりたかった。

 時が過ぎ、垂れ幕がゆっくりと上がっていく。秀一は蝋人形のような顔つきで舞台上へと消えていった。


◇◆


 盛大な拍手の中、秀一は舞台裏に戻った。そこには拍手をしながら柔和に表情を綻ばせる恭二の姿があった。

「よかったよ。とても素晴らしい演奏だった」

「ありがとうございます」

「この後、食事にでも行かないか。もちろん君のお母さんも交えて」

 恭二の誘いに秀一は首を横に振った。秀一は恭二の横を素通りし、裏口から廊下へ続く通路に出た。舞台裏に残された恭二は悄然としたように溜息を一つ零した。

 秀一が静かな廊下をたった一人で歩いていた時、突然、後ろから大きな声が聴こえた。


下手くそ!


 甲高い叫び声に驚き、秀一は後ろを見返った。視線の先――そこには先ほどまで観客席にいたと思わしき花柄のシャツにスカートを履いた少女が一人立っていた。

 どこから入ってきたのだ。ここは関係者以外立ち入り禁止のはずなのに。秀一が怪訝そうに少女を見据える。それにしても、なんとも無礼な少女だろうか。天才と謳われた自分に下手くそなどという台詞を吐くなど、あってはならない。秀一は耳慣れない言葉に一瞬、たじろいでしまった。

「なんだよ?お前は?」秀一は訊ねた。

 少女は今にも泣きだしそうな目をしていたが、力強く秀一の顔を睨みつけ、大きな声を投げつけた。

「あなた、本当にピアノ好きなの?」

 少女の問いかけに秀一はしばし沈黙していた。

「別に好きなわけじゃない。――むしろピアノなんて大嫌いだ。ただ、僕には才能があるから。母さんが弾けっていうから。僕は仕方なくピアノを弾いているだけ。本当なら、今すぐにも自分の指を斬り落してやりたいぐらいさ」

 吐き捨てるように呟く秀一に向って少女は我慢の糸が切れたように、

「馬鹿!」

 と、叫び廊下の向こうへと走り去ってしまった。

 小さくなっていく少女の後姿を見て、秀一は訳も分からず立ち尽くしていた。しかし、我に返った秀一は少女の無礼な言動に腹が立った。

「なんだよ……」秀一は呟いた。


また、あの子ですか。


 秀一が裏口の扉に視線を滑らせると、扉からこちらを覗く、恭二の姿があった。どうやら恭二は今の二人のやり取りの一部始終を見ていたらしい。

 恭二は、秀一の元へ歩み寄り、やれやれと言った形相を浮かべていた。

「また? あの子は先生の知り合いですか?」

「えぇ、まぁ――」

 恭二は意味深に頷く。

 秀一はそれならばと言わんばかりに少女の無礼な態度の文句を言った。天才である自分に対して下手くそという暴言、挙句の果てに馬鹿扱い。かつてないほどの憤りさえ覚えた秀一は眉間に皺を寄せ、廊下を歩き始めた。

 すると恭二は、陰鬱な声で呟くのだった。

「指がないんだよ」

 秀一の足に急ブレーキが掛かる。振り向いた。

「どういう意味です?」

「少し前に私のところに来たことがあってね、ピアノを習いたいって言ってきた。でも、私は、あの子の願いを拒んだんだ」

「なぜです?」

 恭二は神妙な面持ちで話を始めた。

「彼女には生まれつき左手の指が無い。障害を持って産れてきたんだよ。先天性四肢欠損という障害だ。私は彼女の左手を見て、入門を拒んだんだよ。指がないあの子にどうやってピアノを教えたら良いのか――それが私には分らなかった。けれど、あの子のピアノを弾きたいという気持ちは本物なんだよ。現にこうやって君のコンサートに毎回のように来ている。恐らく君の演奏に惹かれているんだろう。彼女がコンサートに来るのは今日に限ってのことじゃない」

 恭二はどこか悔しそうに語っていた。障害者を受け入れられなかった自分を疎ましく思っているのだろうか。秀一は左拳を力強く握りしめた。自分はなんと愚かしい言葉を言ってしまったのだろう。

――今すぐにも自分の指を斬り落してやりたいぐらいさ――

 唇をきつく噛みしめ、秀一は少女の後を追った。少女を憎らしく思った自分が一番憎らしかった。

 裏口へ抜け、コンサート会場の外へ飛び出た。辺りをキョロキョロ見回す。が、少女はいない。どこだ?どこにいる。秀一は激しく息を切らした。いつもピアノばかり弾いていたのだから運動不足は否めない。 街路を走る秀一。立ち止まりまた辺りを見まわし少女の姿を探した。

 雑踏の隙間から、花柄のシャツがちらっと見えた。秀一ははっとしたかのように目を見開き、勢いよく走りだす。

「待て!」

 街路で響く秀一の叫び声。その場に居た誰もがタキシード姿の秀一に視線を投げる。動悸息切れする秀一を見て、少女はピタッと動きを止めた。

 双肩を上下に動かし、息を切らす秀一。彼はゆっくりと歩を進め、少女の左手を握った。確かに恭二の言う通り、少女の左手には指一本無かった。

 少女の肩が子刻みに震える。悔しそうに瞼を閉じ、眉間に皺を寄せる。彼女の猫のような丸い目は涙で濡れていた。

「――どうして私だけが……」

 少女は誰に言うわけでもなく呟いた。どれほどピアノを弾きたいという念があろうとも、誰も少女の想いを叶えられるピアノ講師はいなかった。先天性四肢欠損という生まれながらの障害を持ってしまったが故に。

「右手は動くのか?」秀一が訊ねた。

 少女は不思議そうに秀一の顔を見つめる。

「うん」少女は頷き、右手の指を乱雑に動かした。

「――なら、僕が教えてやる」

 秀一は毅然とした口調だった。無礼者は自分だったのだ。しかし、秀一の唐突な申し出に少女は戸惑っているらしかった。少女は視線を泳がせていた。

「無理よ」

 少女は悄然としたように言った。

「弾きたいなら、弾けばいい。大丈夫、僕は天才だ」

 秀一の確信に満ちた眼光を見て、少女は恥じらいの頬笑みを浮かべた。


――この世界には才能に恵まれる者も居れば、障害を背負って生きていかなければならない者もいる。

  秀一がピアノの前で微笑むようになったのはそれからの事だった。


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