うさぎ、うそ、うさぎ
「とりあえず鼻水拭けよ」
そう言って隼人は目の前で目を腫らす女に、ティッシュ箱を差し出した。
溢れる涙を拭いもせずに声を漏らす女は、隼人の幼馴染の松浦陽菜だ。陽菜は何も言わずに、箱を受け取り、そしてまた涙を零す。隼人は、相変わらずの陽菜の様子を見て、大きなため息を吐いた。
ことの発端はつい何時間か前のこと。心地よい眠りに入った隼人を妨げたのは、他でもない陽菜だった。
一向に話そうとしない陽菜を見かね、隼人はキッチンに向かった。そして、冷蔵庫からミルクを取り出し、コンロに火をつける。
「ねぇ、今めんどくさい女だって思ったでしょ」
キッチンに立つ隼人の背中に向かって、陽菜は声を荒げる。
「思ってねぇよ」
「いや、絶対思った!だって顔に出てたもん、めんどくさいって」
隼人は今日で2回目のため息を吐いた。面倒だと思ったなら、彼はとっくに彼女を部屋から追い出していただろう。
彼女が現れたとき、時計の針はすでに夜中の1時を指していた。突然夜中に叩き起こされ、その上、いきなり泣き出すのだから、まるで始末に負えない。それでも、隼人は陽菜を追い返そうとはしなかった。どうして追い返さないのか。どうして面倒なことに付き合っているのか。全くと言っていい程、その理由を気付かない陽菜に、少しくらい嫌な顔をしたって罰は当たらないはずだ。
「結局、何があったんだよ」
苛立つ気持ちを抑え、隼人はできるだけ冷静に話しかけた。
「ふられた」
陽菜は一言だけ言うと隼人のベッドに座りこんだ。ベッドは陽菜の重みを受け止め、ぎしぎしと音を立てた。
「お前さぁ、毎回毎回フラレるたびに、俺んとこ来んな」
「気付いたらここに居たんだもん、しょうがない……じゃん……」
消えてしまいそうな声。整った顔立ちが台無しになるほど、赤くなった目元。まるでウサギのようだと、隼人は思った。
そんな彼女を、愛おしいと感じてしまう隼人の感情は、随分前から、もう後戻りできない所まで来ていた。
「それで、フラレタ理由は?」
沸騰したミルクを丁寧にカップに注ぎながら、隼人は今の状況を少しだけ楽しんでいる自分を感じた。
「君の好きな人は僕じゃない」
「は?」
「そう言われたの、彼氏……じゃなく元カレに」
「ふーん」
隼人の作った特性のホットミルクがテーブルの上に置かれる。陽菜はベッドからゆっくりと降り、カップへと手を伸ばした。この隼人特製のホットミルクを陽菜が飲むのは一体、何度目だろうか。泣き疲れた陽菜の身体に程良い甘さが伝わっていく。
「美味しい」
「で、結局、誰が好きなんだよ」
隼人は長めの前髪をかきわけ、陽菜に目線を合わせた。陽菜は改めて隼人を見つめた。相変わらず整った顔立ちの隼人だが、今日は普段よりも妖艶に感じられる。そんな隼人のいつもとは違った表情が、陽菜の鼓動を速まらせていた。
「誰って……。わかんない」
「……ったく、そんなんだから振られるんだよ」
彼のついた3度目のため息は、諦めと、どうしようもない切ない感情がこもっていた。
「だって、元カレと付き合い始めたのもあっちが好きだって言うから、なんとなく私も好きなのかなぁって思って付き合っただけで……。実際、好きなのかは分からないって言うか……今思うとただ寂しいだけだったのかなって……」
「じゃあ、別れて良かったんじゃねぇの?」
隼人は煙草に火を付け、白い煙を吐き出した。
「そのままダラダラと付き合っててもしょうがないだろ。焦んな。本当に好きな奴だけと付き合え」
どこか突き放すようで、それでいて優しい隼人の横顔は、本当に綺麗だった。陽菜はカップに残っているミルクを一気に飲み干し、愛らしい笑顔を見せた。
「ありがと……なんか凄いすっきりした。そういえば隼人はどうして彼女作らないの?もしかして…好きな人いる?」
隼人は煙草を灰皿に押し付け、速まる鼓動を何とか静めようと努めた。
「いるよ」
「そ、そうなんだ。えっ誰……?」
予想外の言葉だったのか、陽菜は少しだけ動揺した。
「お前の知らない奴だよ」
隼人はズキズキと痛む胸の痛みを気付かないふりをして目を閉じた。急に辺りには、耳が痛いくらいの沈黙が流れた。
「お前、何でまた泣いてんだよ」
隼人は泣き止んだはずのウサギが、また涙を流していることに驚いた。
「嫌だ」
「は?何が……」
「隼人が私以外の人に、ホットミルクを作ってあげるなんて絶対、嫌!」
泣いた跡の残る赤い目が、隼人の顔を捕らえる。陽菜は飲み干したカップを握り締め、大粒の涙を流した。
隼人は、陽菜の言葉の意図が読み取れず困惑した。
「何だよ、それ」
「隼人が他の人に優しくするの想像したら、なんかすっごいムカついたの!」
「お前、言ってる意味わかってんの?」
「分かんないよ。でもムカつく! なんでか知らないけどムカつくの!」
隼人は目の前で、ありもしない空想の人間に、嫉妬をする陽菜を抱きしめたい衝動に駆られた。陽菜の嫉妬は、恋心からくるものなのか、それとも、ただの強い独占よくからくるものなのか……。
彼は後戻りできない感情を持て余しながら、その整った顔で笑った。
「なぁ、陽菜。俺の好きな奴に会いたい?」
「え?」
陽菜は予想外の隼人の言葉に、驚きを隠せなかった。
「俺の好きな奴気になるんだろ?会わせてやるよ」
「ヤダ、会いたくない」
陽菜は子供のように肩を竦め、目を伏せた。
「いいから、目ぇ開けろ」
陽菜が恐る恐る目を開けると、そこには真っ赤に目を腫らした自分の姿が映っていた。
「会えた?」
「隼人、どういう意味……」
隼人は手に持っていた鏡をテーブルに置き、陽菜の手を引いた。そろそろこの気持ちに決着を付ける時が来たようだ。目の前で驚くウサギを、例え失うことになっても、自分の気持ちに嘘はつけないのだから。
二人の距離がゼロになる。
「俺の好きな奴はお前だよ」
目の前には裏切られたと言うような顔をしたウサギが一羽。零れだした感情は留まる事を知らない。一線を越えてしまえば楽になる。
――さぁ、今までの嘘を取り戻そうか。君が僕を見つめてくれるまで――