1-5 <ハールブンの天使>
アルバードの南方にある港街マルカの一角に、天国を意味する名をもつ「ハールブン」はある。
掘と塀に守られたその都市は、六角形の形をした建物が外から中へと螺旋を描くように並んでおり、きっと 上空からだと蜂の巣のように見えることだろう。
ここは国の保護をうけ管理された、娼館のある華街で首都であるアルバードとは別の意味で賑わっていた。
グレゴリーが久しぶりにハールブンを訪れたのは、劣欲に耽りたいというよりも人肌を無性に恋しくなったからからだ。
年月がたっても殆ど変わらない景色にホッとしながら、一軒の娼館で娼妓アリアに促され三階の部屋へと案内される。
アリアはとうに三十を過ぎているが、その年月が彼女の魅力を深め落ち着いた美しさをもった女性で、グレゴリーは今日のように、落ち着いた時間を楽しみたい時に、よく相手にしてもらっている。
「窓、お開けしましょうか?」
こういった場所特有の、甘ったるい香りを好まぬグレゴリーに、アリアは明るい茶色の瞳を細め優しく話しかけてくる。
「今日は天気がよいから、風を感じたい」
アリアは静かに頷き窓を開ける。初夏の心地よい風が部屋へと流れ込む。
「今日の空は、本当に美しい」
窓から見える青空を見つめ、グレゴリーはつぶやいた。
どこからか、美しいリュートの調べと澄んだ歌声が、風にのって聞こえてくる。
どこぞの娼妓が奏でているのだろう。繊細でいながら優しく包み込んでくれるようなリュート音色にグレゴリーは思わず聞き入る。 響き渡る透明な歌声が合わさることで、さらに純美さは増し、聞く人を天上へと導いく。よりその音楽の世界へと近づこうと、グレゴリーは窓から顔を出す。並びたつ娼館の窓からも、娼妓と客が顔をだし、グレゴリーと同様その音楽に聴き惚れているようだ。音楽を聞き入るどの顔も、穏やかで幸福に満ちていた。
ハールブンの街がその名の通り、天国へとなったような光景である。
演奏が終わり、アリアの煎れてくれたお茶で喉を潤す。グレゴリーは感動も冷めやらぬ状態で子供のように頬をほんのり赤くしている。
「あれほどの演奏が出来るものならば、宮廷音楽家にでもなれるでしょうに! どのような娼妓なのですか?」
アリアは静かに首を横にふる。
「娼妓ではありませんよ、先ほどの音楽は天使が演奏しているんですよ」
「天使?」
「ハールブン(天国)ですもの、本物の天使が訪れても不思議じゃないですよ」
悪戯っぽくアリアは笑い、お茶のお代わりをカップに注いだ。
アリアは説明した。最近ハールブンに美しい天使が訪れて、娼妓を慰め癒しているという。
優しく娼妓たちに話しかけ、奏で、泣いている者を優しく抱き、彼女達を傷つけようとするものから自らが盾となり守り、癒しているらしい。
「グレゴリー様は運がよろしいですね、ハールブンに暮らす私達ですら天使様の音楽はめったに聴けないんですよ!」
確かにここに来て良かったようだ。
グレゴリーの心がこんなにも幸せに満ち足りて穏やかな気持ちになるのは何年ぶりだというのだろう?
晴れやかな気持ちでハールブンの街を後にし、グレゴリーはアルバードへと戻ることにした。
下宿へ戻らず、美味しそうな香りに誘われ、一軒の食堂へと入る。
簡単な食事を注文して、周りをゆっくりみやると仕事を終えたであろう男達が、他愛ない会話を楽しみながら夕飯を楽しんでいた。
そこには、何てことない平和な庶民の日常生活が広がっている。
そういえば、昔は自分も彼らのように一日仕事に励み、こういった食堂で皆と会話を楽しんだものだ。
最近は食材屋でハムとパンとワインだけ買い、部屋に戻り簡単に食事を済まし、書物を枕に眠るというずいぶん寂しい枯れた生活をしてきたものである。
「あんた、中央の人かい?」
美味しそうなスープとパンと茹でた野菜の載った皿が、テーブルに置かれた。
料理をもってきた恰幅のよい中年の女将が、人の良い笑顔をグレゴリーに向けてくる。
中央とはアルバードの中心にある王宮司法地区と軍司令部がある、城壁に囲まれた地区を総称として呼ばれている。
そこで働くということはエリートであると公言しているようなもの。
この年齢で半隠居状態の自分を自覚しているだけに、グレゴリーは曖昧に答えたが、相手はそんな戸惑いを全く気にしてないように感心したように何度も頷く。
「それは羨ましい! あの天使様の近くでお仕事出来るなんて!」
驚いたハールブンだけでなく、城下町にも天使は現れているようだ。
「ほう、コチラでも評判になっているとは」
女将は当たり前だと大笑いする。
「あれほど、美しく清らかな方を私は見たことないですよ! 私達をいつも優しく見守って下さる」
女将がうっとりするような顔で語るのを、周りの客も頷いて参加してきた。
「なんたって マギラを追い払ってくれたのもあのお方だし」
我先と無邪気な嬉しそうな顔で天使の話を始める。
皆心から天使を愛し慕っているのがその様子からも伺いしれた。
「あの黄金の瞳に見つめられるだけで、心が洗われるような気持ちになる」
黄金の瞳ということは、天使は王弟子レジナルド様の事なのか?
グレゴリーは、王族でありながら剣を持ち国の為に先陣きって戦い、街の中に自ら足を運び民衆の為の行動するレジナルドという人物の事を考える。
実際会った事はないが、金彩眼もつレジナルドは、黄金の髪に藍色の瞳をもつ大層美しい男性らしい。
軍人である事もあり、鍛え上げられた体躯が彼にさらに雄々しい魅力加え、その壮麗さは、並の女性が隣に立つことすら躊躇ってしまう程だとか。
その絶佳な姿は、戦場において敵すら見惚れて戦意を無くすほど神々しいとまで言われている。
「あんたもそう思わないか!」
知らない男にいきなり話を振られ、考え事をしていたグレゴリーはビックリして顔を上げる。
「レジナルド様にはお会いする機会はありませんが、素晴らしい方なようですね」
当たり障りない返答をしたつもりが、男はキョトンとグレゴリーを見た。
皆一斉に笑い出す。
「いやいや、レジナルド様も確かに私ら庶民にも気をかけて下さるし、素晴らしいお方だ! でもあの方は王族ですよ! 気安く我々がそんな話題にするのも恐れ多い。我々が言っているのはゴーバーグ様だよ!」
コーバーグ……彼がかつて敬愛し、付き従った人物の姓で、現在王宮内で怖れられている亡霊もその名をもつ。その名を聞き、スプーンを思わず落とした。
「金獅子のレジナルド王弟子と、天使コーバーグ様がいれば、アデレードも安泰だ」
グレゴリーは今更ながら、呆然とする。
――コーバーグ――
再び民衆からこの単語が語られるのを耳にする事があるとは……。
「コーバーグ様――」
かつて自分が敬愛を込めて呼んだその名を、虚ろな目でグレゴリーはつぶやく。