アズ・ナハル
世界が、静かに定着した。
白が引き、輪郭が戻る。
最初に感じたのは、涼やかな空気だった。
砂漠の夜明け前の乾いた冷気ではない。
水を含んだ、澄んだ冷たさ。
次に、光。
視界が開けた瞬間、
ミレイアは、思わず息を止めた。
「……」
そこは、高台の回廊だった。
都市を見下ろす位置。
だが、視界に広がるのは屋根の連なりではない。
白と淡い砂色の石造り。
幾重にも巡らされた水路。
水面に反射した光が、ゆっくりと揺れている。
街が——
水の上に浮かんでいた。
建物と建物の間を、
細い水路が縫うように流れ、
その上を渡す回廊が、空中に線を描いている。
都市全体を包む結界は、
薄く、柔らかい光を帯びていた。
夜と昼の境目のような、呼吸する色。
「……きれい……」
自然に、声が漏れた。
砂漠の中央にある都市だと聞いていた。
だが、乾きはない。
荒々しさもない。
(……生きてる街)
水が巡り、結界が循環し、人の営みが、その上に静かに積み重なっている。
王都とは、まるで違う。
「そうでしょ」
隣で、ラザルが穏やかに言った。
「アズ・ナハルはね、上から見る方が分かりやすいんだ」
どこか、
“自慢したい”というより、
“好きなものを見せたい”口調だった。
その声で、ミレイアははっとして視線を落とす。
——その時、ようやく気づいた。
まだ、手を繋いでいる。
転移の余韻か。
それとも、景色に意識を奪われていたのか。
指先に、確かな温度。
「あ、……っ」
反射的に、手を引いた。
「す、すみません!」
少しだけ、大きすぎる声。
ラザルは、驚いた様子もなく、
空いた手を軽く下ろしただけだった。
「気にしなくていいのに」
笑顔だった。
からかうでもなく、
詰めるでもなく。
本当に、気にしていない顔。
むしろ、
少しだけ名残惜しそうにも見えたが、
すぐにどうでもよさそうに視線を戻す。
ミレイアは、頬が熱くなるのを感じた。
(……落ち着いて)
視線を逸らし、
改めて回廊を見渡す。
人影はない。
観光用の場所ではないのだろう。
「ここは……?」
「工房に行く前に通るだけの場所」
ラザルは、回廊の先を指した。
「人が少ないから、嫌いじゃない」
居心地の良さを語るみたいな言い方だった。
そう言って、歩き出す。
足取りに、迷いはない。
だが、急かす様子もない。
ミレイアも、少し遅れて続いた。
石畳は、ひんやりとしている。
だが、足元は安定していた。
(……環境がいい)
水利。
結界。
魔力循環。
どれも、
雑に作られた都市ではない。
「工房は、あっち」
ラザルが、回廊の下を示す。
水路の合流点。
白い石造りの建物が、
他より少しだけ低く構えている。
「地味なところだけど、機能性は保証するよ」
どこか誇らしげで、でも押しつけがましくない。
ミレイアは、小さく頷いた。
(……仕事の場所だ)
胸の奥が、静かに切り替わる。
美しさに息を呑んだ時間は、終わり。
ここからは——
工房。
ラザルは、歩きながらちらりと振り返る。
「準備はいらない。今日は、見るだけでいい」
その言葉に、
ミレイアの指先が、わずかに緊張した。
回廊を下り、
水音が近づく。
アズ・ナハルの中心へ。
彼女が、
再び“職人”として息をする場所が、
すぐそこにあった。




