転移
「この後の時間は、大丈夫だった?」
白環亭の外、石畳に出たところで、
ラザルが、思い出したようにそう聞いた。
問いかけは軽い。
確認というより、流れの中で浮かんだ一言に近い。
「は、はい」
ミレイアは、少しだけ背筋を正して答える。
「大丈夫です」
「そっか」
短く頷く。
それで終わり、という顔だった。
「じゃあ、行こうか」
(……行く?)
「ここから、都市間転移装置で移動するんですか?」
王都には、正式な転移設備がある。
使用には申請と審査が必要で、
個人が気軽に使えるものではない。
ラザルは、少し考えてから、首を横に振った。
「ううん」
そして、拍子抜けするほど軽く言った。
「普通に、転移する」
(……普通に?)
一瞬、言葉の意味が追いつかなかった。
都市間転移は、国家級の設備か、
複数人で構成された魔導士団による大規模術式が必要になる。
単独で。
しかも、準備もなく。
「……」
ミレイアは、思わずラザルを見る。
彼は、特に構える様子もない。
魔力を練る気配も、詠唱の兆しもない。
(個人転移……?)
それがどれほど異常なことか、
魔道具に関わってきた彼女には、よく分かっていた。
「あの……」
言葉を選ぶ。
「ラザルさんは、魔導士の資格もお持ちなんですか」
ラザルは、少しだけ目を瞬かせた。
「ああ、違うよ」
即答だった。
「資格、持ってたら面倒でしょ」
理由が、雑だった。
「ただ、移動に便利だから」
そう言って、外套の前を、
思い出したようにわずかに開く。
露わになった鎖骨。
そこに、淡く光を宿す魔導刻印が刻まれていた。
幾何学的で、複雑で、
一目見ただけで“高度”だと分かる紋様。
肌に、直接刻まれている。
(……刻印)
魔導刻印は、補助的なものがほとんどだ。
記録、認証、簡易通信。
転移系を、自分の体に刻む者はいない。
失敗すれば、戻れない。
誤差が出れば、肉体が保たない。
利便性と引き換えに、
常に危険を背負う選択だ。
(……普通じゃない)
ラザルは、ミレイアの視線に気づいて、
少しだけ首を傾げた。
「そんなに変かな」
本気で、分かっていない顔だった。
「慣れると楽だよ」
言ってから、
あ、と何かを思い出したように付け足す。
「初めてだと、ちょっと酔うかも」
ちょっと、で済む話ではない。
「じゃあ」
ラザルが、こちらを向く。
「行こっか」
そう言って、
自然に、手を差し出した。
ためらいはない。
だが、強引さもない。
まるで、
一緒に歩く延長のような動作だった。
ミレイアは、一瞬だけ迷い、
それから、そっと手を重ねた。
指先が触れた瞬間、
ひやりとした感覚が走る。
魔力の気配。
近い。
思ったより、ずっと。
「……目、閉じた方が楽かも」
さっきより、少し楽しそうな声。
「い、いえ……」
そう答えた、その直後。
世界が、静かに反転した。
風も、音も、光も、
すべてが一瞬で引き剥がされる。
——転移。
握られた手だけが、
確かな重みを持っていた。
ミレイアは、反射的にその手を離さなかった。
(……簡単には、戻れないかもしれない)
そう思ったのは、
転移の衝撃のせいか。
それとも——
ラザルが、
少しだけ楽しそうにしていたからか。
世界が、白く滲んだ。




