提案
工房に、一定のリズムで音が響いていた。
刻印具が金属に触れる、乾いた音。
集中していなければ、聞き流してしまう程度のもの。
ミレイアは、作業台に向かっていた。
手は動いている。
判断も、迷っていない。
だが——
(……)
思考だけが、別のところに引っかかっていた。
昨日のこと。
距離。
言葉。
「だめだ」と言い切られた声。
独立の話は、保留。
理由は、言われていない。
(……保留、って)
判断を先送りにする、という意味だ。
拒否ではない。
——だから、余計に落ち着かない。
ミレイアは、刻印具を置いた。
深呼吸を一つ。
(……考えても、仕方ない)
そう結論づけて、もう一度作業に戻ろうとした、その時。
工房の扉が、開いた。
足音。
昨日と同じ。
迷いのない、軽い音。
「やあ」
聞き慣れた声。
ミレイアは、反射的に顔を上げた。
ラザルだった。
今日は、やけに明るい。
いや——晴れやか、という方が近い。
「……会長」
「うん。ちょっといい?」
いつも通りの調子。
昨日の張り詰めた空気など、最初から存在しなかったかのようだ。
ミレイアは、作業台から一歩下がる。
「何か、ご用件が」
「あるある」
即答。
ラザルは、工房を一周見回し、満足そうに頷いた。
「相変わらず、落ち着くね。ここ」
それから、何でもないことのように言う。
「条件を、変えようと思ってさ」
ミレイアの動きが、止まった。
「……条件、ですか」
「うん」
ラザルは、作業台の向かいに立つ。
距離は取っている。
だが、意図的に逃げ場を作らない位置だ。
「君が気にしてたこと、昨日ずっと考えてた」
軽い口調。
だが、目は冗談を言っていない。
「“商会に迷惑がかかる”って話」
ミレイアは、視線を伏せる。
「……はい」
「だからさ」
ラザルは、指を一本立てた。
「商会所属、やめよう」
一瞬。
理解が、遅れる。
「……え」
「正確にはね」
言い直す。
「君は、僕個人との専属契約にする」
さらりと言った。
「それなら、“商会には”もう迷惑はかからない」
ミレイアは、完全に固まった。
「……それは」
言葉を探す。
「不満?」
間髪入れずに来る。
「いえ、不満では……」
「契約内容は変えないよ」
被せるように続ける。
「今まで通り、ここで働いてくれればいい。死蔵品の修理も、予約案件も、全部そのまま」
むしろ、気楽でしょ?
そう言わんばかりの顔。
だが。
ミレイアは、首を振った。
「そうでは、なくて」
少し、言いづらそうに続ける。
「……ラザルさん一人に、負担が集中します。それは、危険だと思います」
ラザルの表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚きでも、不快でもない。
——試された、という顔。
「ふうん」
短く、相槌。
それから、首を傾げる。
「僕が、弱いと思ってる?」
ミレイアは、即答できなかった。
「……分かりません。ですが、危険だという判断は、変わりません」
ラザルは、その答えを聞いて。
なぜか、少しだけ楽しそうに笑った。
「なるほど」
それから、軽く息を吐く。
「じゃあさ」
声が、少しだけ低くなる。
「見せてあげる」
ミレイアは、眉を寄せた。
「……何を、ですか」
ラザルは、すでに踵を返している。
工房の奥。
通信具が置かれた方向へ、歩きながら言った。
「僕が、一人で抱えてると思ってる“危険”を」
振り返る。
晴れやかな笑顔は、そのままだ。
「確認してから、判断しよう」
逃げ道は、ない。
だが——
拒否されているわけでもなかった。
ミレイアは、その場で立ち尽くしたまま、
ラザルの背中を見つめる。
胸の奥に、さっきとは違う種類のざわめきが生まれていた。
(……何を、見せるつもりなんだろう)
その答えが出る直前で、
工房の空気が、また一段、変わろうとしていた。




