独立
工房は、いつもと同じ匂いがした。
金属。
魔力残滓。
油と、乾いた布。
ミレイアは、一人だった。
昼の作業は終わっている。
急ぎの案件もない。
それでも、灯りは落とさなかった。
作業台の横。
いつも使っている小さな棚を、開ける。
中には、私物が少しだけ入っていた。
古い手袋。
自分の手に合わせて直した工具。
刻印が浅く、商会の備品には向かないもの。
——最初から、持ち込みだった。
ミレイアは、それらを一つずつ取り出す。
布で拭く。
刻印をなぞる。
欠けがないか、確かめる。
(……これも)
(……持っていく)
自然に、そう判断していた。
誰に言われたわけでもない。
許可も、確認も取っていない。
だが、
「持ち出してはいけない」とも、思わなかった。
ここで使っていた。
これからも、使う。
それだけだ。
棚の奥に、小さな記録帳があった。
商会の様式ではない。
自分用のもの。
判断理由。
直さなかった理由。
触らなかった理由。
——そして、直した理由。
ミレイアは、それを開く。
最後に書かれているのは、あの件。
古代装置。
修復不可。
不可逆的劣化。
ページの端を、指で押さえる。
(……また、起きる)
確信に近い感覚だった。
同じ組織でなくても。
同じ規模でなくても。
「直せる技師」がいれば、
必ず、寄ってくる。
判断を奪おうとする者は、現れる。
(……そのたびに)
(……商会を、巻き込む)
ラザルの顔が、浮かぶ。
会長室。
穏やかな声。
線を引く判断。
守ると言わない。
縛らない。
——だからこそ。
(……これ以上は)
甘えられない。
ミレイアは、記録帳を閉じた。
工房の隅にある、小さな椅子に腰を下ろす。
(個人で)
(できる範囲で)
派手な案件は、受けない。
判断が必要なものだけ、慎重に。
名を売らない。
学会にも、近づかない。
依頼は、少なくていい。
生活が回れば、それでいい。
(……直すのは、好きだ)
それだけは、嘘じゃない。
魔道具が、元の役目を取り戻す瞬間。
流れが、正しく整う感覚。
——あれが、好きだ。
でも。
(……守られるために、直すのは)
違う。
誰かの後ろで、
誰かの庇護のもとで、
判断を続けるのは。
(……違う)
ミレイアは、立ち上がる。
工具箱を開き、
中身を見下ろす。
いつもより、少しだけ軽く感じた。
(今の予約が終わったら)
(その時に、話そう)
まだ、言っていない。
まだ、決めきってもいない。
——だが。
準備は、始まっている。
それだけで、
十分だった。
ミレイアは、工房の灯りを落とす。
扉を閉める前、
一度だけ、振り返った。
(……好きな場所だ)
それも、本当だ。
だからこそ。
(……壊したくない)
自分が原因で、
ここが削られるのは。
ミレイアは、静かに扉を閉めた。
その背中を、
まだ誰も、追いかけてはいなかった。
——今は、まだ。




