もしもの時
会合室を出た廊下は、妙に静かだった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
数歩、歩く。
まだ、誰も何も言わない。
先に口を開いたのは、ラザルだった。
「……君ねえ」
歩調を落とさずに言う。
「本当に、腕と喉を潰したらどうするつもりだったの」
責める声ではない。
だが、冗談にも聞こえない。
ミレイアは、少しだけ考えてから答えた。
「そこは」
一拍。
「情に訴えて、ラザルさんの商会で清掃員として雇ってもらう予定でした」
ラザルが、足を止めた。
「……は?」
素で出た声だった。
ミレイアも、立ち止まる。
振り返って、淡々と補足する。
「魔道具には触れられませんが、掃除ならできます。床も磨けますし、工具の整理もできます。記録係は……文字は書けますから」
真顔だ。
「最低限の生活費があれば十分ですし。住み込みであれば、なお助かります」
ラザルは、数秒、無言だった。
それから、ゆっくりと額を押さえる。
「……君」
低い声。
「それ、本気で言ってる?」
「はい」
即答。
「現実的な案だと思います」
ラザルは、息を吐いた。
長く。
深く。
「……いや」
小さく笑ってしまう。
「そういう問題じゃないんだけどね」
ミレイアは、首を傾げる。
「そうでしょうか」
「そうだよ」
即答。
「商会の清掃員に、元国宝修繕係が混じってる時点で問題だろ」
「肩書きは、もう使えませんし」
「そういう意味でもない」
ラザルは、再び歩き出す。
今度は、ミレイアの方が半歩遅れてついていく。
「……本当にやる気だったんだね」
ぽつりと。
「脅しじゃなくて」
ミレイアは、視線を前に向けたまま答える。
「脅しでは、通じないと思いました」
事実だけを言う口調。
「選択肢として示さないと、理解されないと判断しました」
ラザルは、苦笑する。
「理解はされたね。完璧に」
一拍。
「でもさ」
歩調を緩めたまま、続ける。
「僕としては、ああいう覚悟を、君一人に切らせる気はなかったんだけど」
ミレイアは、少しだけ目を伏せた。
「……すみません」
「謝るとこじゃない」
即座に返す。
「怒ってるわけでもないし」
ただ、と前置きして。
「正直、肝が冷えた」
ミレイアは、小さく瞬いた。
「……そうですか」
「そうだよ」
横目で見る。
「君が自分を壊す前提で話を組み立てるの、商人としては一番怖い」
ミレイアは、少し考えてから言った。
「ですが」
「うん」
「私が壊れれば、あの人たちは、何も得られません」
ラザルは、そこで完全に歩みを止めた。
ミレイアを見る。
まっすぐな目。
逃げ道を作らない目。
「……それを、分かってて言ってるんだよね」
「はい」
「自分が一番の抑止力だって」
「はい」
ラザルは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……君はさ」
声は低い。
「本当に、僕を楽な商人にする」
ミレイアは、きょとんとする。
「?」
「……何も、していませんが」
ラザルは、少しだけ笑った。
「してるよ」
一拍。
「一番、値の張る仕事を」
廊下の先に、外光が見える。
夜風が、わずかに流れ込んだ。
ミレイアは、その言葉をすぐには理解できなかった。
だが——
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
壊さなくて済んだ。
今日は。
それだけで、十分だった。




