圧力
商会に、違和感が出始めたのは——
一つの事件として認識できるほど、派手な形ではなかった。
最初は、偶然に見えた。
依頼の一本が、取り下げられる。
理由は、もっともらしい。
「内部事情の変化」
「予算の再調整」
「検討段階に戻したい」
どれも、よくある。
ラザルは、報告書に目を通しながら頷いた。
「了解。次に回そう」
それだけだった。
数日後。
別の案件で、交渉が妙に進まない。
条件提示までは順調だった。
先方の反応も悪くない。
だが、最終確認の段階で止まる。
「上の承認待ちでして」
「少々、お時間を」
——時間。
それも、珍しくはない。
さらに数日。
都市案件の承認が、一件、延びる。
水利関係。
優先度は高い。
書類は揃っている。
不備もない。
それでも、返ってこない。
担当官の返答は、歯切れが悪い。
「……少し、順番が前後していまして」
理由は、曖昧。
だが、拒否ではない。
否定されていない。
切られてもいない。
ただ——遅い。
商会の歯車が、
ほんのわずかに、削られていく。
その感覚を、
ラザルは、見逃さなかった。
(……雑だな)
派手に来ない。
だが、確実に効くやり方。
「偶然」で片付けるには、
回数が、少し多い。
だが、この段階では——
まだ、確信はない。
決定打が来たのは、
そんな違和感が、
空気のように馴染み始めた頃だった。
会長室。
書類の束の一番上に、
見慣れない封筒が置かれている。
白い。
厚みがある。
折り目が、異様に正確。
差出人は、記されていない。
だが、
宛名だけは、はっきりしていた。
――アル=ハディード商会 会長
ラザル・ノーム 殿
ラザルは、指先で封筒を取る。
重さを、確かめるように。
「……ふうん」
封を切る。
中身は、便箋一枚。
文字は、整いすぎている。
感情の入り込む余地がない。
最初の一文は、丁寧だった。
《平素より、貴商会の活動には多大なる敬意を表しております》
礼儀正しい。
無難。
よくある書き出し。
だが、読み進めるにつれ、
その丁寧さが、
じわじわと不快に変わっていく。
《さて、先日ご縁のありました、ミレイア・カレヴァン殿につきまして》
——そこか。
ラザルの目が、細くなる。
《本機関では、現在、彼女の高度な判断力と技術を、より適切な管理体制のもとで活用すべきではないかと、検討を進めております》
管理。
その言葉が、
さりげなく、置かれている。
《つきましては、今後の混乱を避けるためにも、ミレイア・カレヴァン殿を本機関の管理下に置くことを、ご検討いただければと存じます》
丁寧。
あくまで「お願い」の形。
だが、行間は明確だった。
——差し出せ。
《なお、本件が円滑に進んだ場合、貴商会との今後の取引関係においても、前向きな調整が可能となるでしょう》
脅しではない。
保証でもない。
ただの、示唆。
《ご理解とご協力を、何卒よろしくお願い申し上げます》
署名はない。
所属名も、書かれていない。
だが、誰から来たものかは、明白だった。
ラザルは、最後まで読み終えると、便箋を机に置いた。
指先で、軽く整える。
表情は、変わらない。
だが、
空気が、一段、冷えた。
(……なるほど)
圧力。
交渉。
選択肢の提示。
全部、
「合法」の範囲内。
誰も、声を荒げていない。
だが、狙いは一つ。
ミレイア。
ラザルは、椅子にもたれ、
天井を一瞬だけ見上げた。
この段階では、
まだ、決めつけない。
だが——
違和感は、もう「偶然」ではなかった。
ラザルは、会長室の呼び鈴に手を伸ばす。
短く、鳴らす。
「一つ、調べてほしい」
声は、低い。
「最近、流れが変わった案件全部」
一拍。
「特に、依頼元と、経路」
返答は、すぐに来た。
『了解』
それだけ。
ラザルは、もう一度、便箋を見る。
丁寧で、礼儀正しく、傲慢な文章。
(……急ぎすぎだ)
まだ、何も奪えていないのに。
ラザルは、静かに思った。
(君たち、何をそんなに焦ってる?)
商会の外では、いつも通り都市が回っている。
誰も気づかないところで、商会という歯車は、確実に狙い撃ちされ始めていた。




