返答
会長室は、いつも通りだった。
大きすぎない机。
壁際の書棚。
窓から入る光は、昼のまま。
ラザルは、書類に目を落としていた。
ミレイアがノックすると、すぐに顔を上げる。
「どうだった?」
軽い声。
探る感じはない。
ミレイアは、一歩中へ入り、扉を閉める。
「……話は、聞いてきました」
それだけ言って、
少しだけ間を取る。
ラザルは、椅子にもたれかかる。
「うん」
急かさない。
続きを待つ。
ミレイアは、正直に言った。
「条件は、良かったです」
「だろうね」
即答だった。
「多分、うちより」
「はい」
否定しない。
年俸。
研究環境。
身分保証。
全部、見た。
「それで?」
ラザルは、ようやく書類を閉じた。
ミレイアは、視線を上げる。
「……断ろうと思います」
その言葉は、静かだった。
決意を誇示しない。
ためらいも、引き延ばしもない。
ラザルは、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……よかったの?」
問いは、柔らかい。
「断って」
ミレイアは、すぐに頷いた。
「はい」
一拍。
「私は、ここがいいです」
言い切りだった。
理由を並べない。
条件を比べない。
“ここ”。
ラザルは、少しだけ黙った。
それから、ふっと息を吐く。
「……そっか」
短い一言。
だが、声の端が、わずかに軽い。
「正直に言うとね」
椅子に深く腰掛ける。
「条件だけ見たら、君が向こうに行くのは、正しい選択だと思う」
商人の判断だ。
「環境も、評価も、責任の分散も、全部整ってる。君一人に、重い判断を背負わせない仕組みも、ある」
ミレイアは、黙って聞く。
「それでも?」
「それでもです」
被せるように、即答。
「……向こうは、直す前提で話をしていました」
ラザルの眉が、ほんのわずかに動く。
「私は、直さない判断も、仕事だと思っています」
ミレイアは、続けた。
「でも、あそこでは、それを、選べない気がしました」
説明は、それだけ。
ラザルは、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに笑う。
「……選んだんだね」
「はい」
「条件じゃなくて」
「はい」
ラザルは、肘を机について、手を組む。
「嬉しいよ」
あっさりと言った。
「技師に“ここがいい”って言われるのは、商人冥利に尽きる」
冗談めかしている。
だが、軽くはない。
「後悔しない?」
念のための確認。
ミレイアは、少し考えてから答えた。
「……後悔する可能性は、あります」
正直だ。
「でも」
視線を逸らさずに言う。
「今、断らない方が、後で、もっと後悔する気がしました」
ラザルは、口角を少しだけ上げた。
「それなら、十分だ」
立ち上がり、窓の方へ行く。
背を向けたまま言う。
「返事は、君が出していい」
振り返らない。
「個人宛には、個人で返す。それが、一番綺麗だ」
ミレイアは、深く息を吸う。
「……はい」
一歩、引こうとして、止まる。
「……会長」
「なに?」
「止めないでくれて、ありがとうございます」
ラザルは、肩をすくめた。
「止める理由がないって言ったでしょ」
一拍。
「それに」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「君が選んだ場所なら、僕はそれでいい」
ミレイアは、小さく頭を下げた。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」
いつもの調子。
それが、妙に心強かった。
扉を出てから、
ミレイアは一度だけ足を止める。
(……選んだ)
(……ここを)
胸の奥が、少しだけ軽い。
そして同時に、
まだ知らない重さが、
これから来ることも分かっていた。
——それでも。
今の判断は、間違っていない。
ミレイアは、工房へ戻った。
返事を書くために。




