個人宛の書簡
その手紙が届いたのは、昼下がりだった。
商会本館の受付を通らず、工房区画の裏手。
技師用の私書箱に、そっと差し込まれていた。
いつもの請求書でも、部品の納品票でもない。
封筒は白く、厚みがあり、折り目が正確だった。
差出人の名は、ない。
宛名だけが、丁寧な筆致で記されている。
――ミレイア・カレヴァン 様。
ミレイアは、一瞬だけ手を止めた。
(……個人宛?)
技師個人に、直接届く手紙は少ない。
大抵は、工房か、商会を経由する。
それに、この封筒には
商会の刻印も、搬送符もない。
ただ、確実に「ここ」に届くよう手配された痕跡だけがあった。
ミレイアは、封筒を持ったまま工房へ戻った。
作業台の端。
いつもの位置。
工具を置く前に、封を切る。
中から出てきたのは、数枚の上質な紙だった。
最初の一行を見て、ミレイアは瞬きをする。
差出人名。
《汎域魔道技術評価・再生統合機関》
長い。
だが、冗長ではない。
肩書きの一つ一つが、意図的に積み上げられている。
(……聞いたことは、ない)
だが。
(……小さな組織じゃ、ない)
文章の作りが、それを示していた。
挨拶文は簡潔で、過不足がない。
相手を持ち上げすぎず、しかし軽んじてもいない。
《貴女の技術的判断力と修復実績について、複数の公的・学術的記録を通じて確認いたしました》
名前は出ていない。
だが、どこから見ているかは、分かる。
学会。
都市。
そして――あの件。
ミレイアは、無意識に指先を握った。
《本機関は、古今東西の魔道技術遺産の評価・保全・再生を目的とした、複数国家・学術都市合同の研究機関です》
国家名は書かれていない。
学会名もない。
ただ、「複数」という言葉だけが、重い。
ミレイアは、ページをめくる。
次の段で、ようやく本題が現れた。
《つきましては、ミレイア・カレヴァン殿個人に対し、技術顧問兼専任修復技師としての契約を打診させていただきたく存じます》
個人。
商会ではない。
その一文を、ミレイアは二度読んだ。
条件が、列挙されている。
年俸。
現在の商会案件を基準にした、複数年分相当。
研究環境。
学術都市クラスの設備を、単独で使用可能。
身分保証。
国家間移動の自由。
研究成果の公的評価。
(……厚い)
率直に、そう思った。
悪くない。
どころか、技師として見れば破格だ。
ページの端を、指で押さえる。
条件は、すべて「できること」について書かれている。
直す。
修復する。
再生する。
(……)
ミレイアは、そこで一度、読むのを止めた。
条件は、よく整っていた。
待遇。
環境。
評価。
どれも、技師としては申し分がない。
だが。
この手紙には、一つだけ書かれていないものがあった。
――なぜ、商会を通さないのか。
ミレイアは、最後の頁まで読み切ってから、
もう一度、最初に戻る。
違和感は、はっきりしない。
説明が足りない、というより、
説明が“多すぎない”。
必要なことだけが、
きれいに並べられている。
(……話を、聞いてみないと分からない)
そう結論づけて、
ミレイアは手紙を折り畳んだ。
一瞬、迷う。
この手紙は、個人宛だ。
商会を通さずに、返事をすることもできる。
止められる理由も、ない。
だが。
ミレイアは、踵を返した。
工房を出て、回廊を抜ける。
足取りは、いつも通りだ。
目的地は、一つ。
会長室。
扉の前で、一度だけ呼吸を整える。
そして、ノックをした。
「……失礼します」
返事は、すぐに来た。
「どうぞ」
扉を開けると、ラザルが書類から顔を上げる。
「珍しいね。どうしたの?」
ミレイアは、言葉を選ばなかった。
選ばないことが、信用だと知っている。
「……個人宛に、手紙が来ました」
そう言って、
折り畳んだ封筒を差し出す。
ラザルは、受け取る。
一目見て、眉がわずかに動いた。
「ふうん」
まだ、何も言わない。
ミレイアは、続けた。
「引き抜きの話です。商会ではなく、私個人に」
言い訳はしない。
判断も、置かない。
事実だけを渡す。
ラザルは、静かに紙を広げた。




