匿名の手紙
その手紙は、朝一番で届いていた。
差出人の名はない。
封蝋もない。
だが、紙だけはやけに上質だった。
アル=ハディード商会本館。
会長室の机の上。
ラザルは、外套を脱ぎながらそれを手に取る。
装飾はない。
余白も、無駄な言葉もない。
(……個人じゃない)
商人の勘が、即座にそう告げた。
開く。
文面は短い。
《先日の貴商会の判断について、敬意を表する》
《直せる物を、直さなかった件について》
一行、間が空く。
《都市のために、一つ確認してほしい装置がある》
《正式な依頼ではない》
《だが、外部に漏らさない技師が必要だ》
署名はない。
だが——
続きを読んだ瞬間、ラザルの指が止まった。
《水利補助結界・第二制御核》
《現行規格外》
《異常なし。ただし、挙動に“遅れ”あり》
「……来たか」
机に、静かに紙を置く。
これは商売じゃない。
交渉でも、取引でもない。
——確認だ。
ラザルは、踵を返した。
工房は、いつも通りだった。
魔道炉の低い唸り。
金属音。
職人たちの、落ち着いた気配。
ミレイアは、作業台で記録帳を書いていた。
ペン先は、一定のリズムを保っている。
「ミレイアさん」
声をかけると、すぐに顔が上がった。
「はい」
反応が早い。
集中している時のそれだ。
ラザルは、前置きをしなかった。
「匿名の手紙が来た」
ペンが、止まる。
「内容は?」
「都市関係だ」
短く。
「確認だけしてほしい装置があるそうだ。正式な依頼じゃない」
ミレイアは、何も言わずに続きを待つ。
「あの貴族の件を、見てた」
一拍。
「“直さなかった判断”が、評価された」
ミレイアは、息を吐いた。
(……回ってきた)
手紙を受け取り、目を走らせる。
「……第二制御核」
低く呟く。
「現行規格外、ですね」
「嫌な言い方だろ」
「いえ」
首を振る。
「触らせる人間を、選んでます」
ラザルは、わずかに笑った。
「行く?」
問いは短い。
選択肢は、最初から渡されている。
ミレイアは、記録帳を閉じた。
「行きます」
即答だった。
「確認だけ、ですよね」
「そう」
「判断は、君に任せる」
工具箱を手に取り、必要最低限だけを詰める。
「……場所は?」
「地下」
「水利中枢の、さらに下」
ミレイアの眉が、わずかに動く。
「……見せない場所ですね」
「見せたくない場所だ」
⸻
転移は、静かだった。
光も揺れも最小限。
意図的に抑えられている。
次の瞬間、石造りの通路。
湿った空気。
低く、一定の水音。
結界が、幾層にも重なっている。
流れてはいない。
だが、確実に——張り付いている。
通路の先に、一人の男が立っていた。
都市警備の制服。
徽章は最小限。
武装はないが、隙もない。
「お越しいただき、ありがとうございます」
声は低い。
「都市警備局・水利管理課の代理担当です」
名は、名乗らない。
それだけで分かる。
ここは、正式な窓口じゃない。
「本日は“修理依頼”ではありません」
先に線を引く。
「異常の有無の確認のみ。持ち帰り不可。口外禁止」
「判断は?」
「技師の判断を尊重します。直さない結論でも構いません」
ミレイアは、小さく息を吐いた。
(……ちゃんとしてる)
男が、重い扉を示す。
「こちらです」
扉が開く。
中にあったのは、巨大な制御機構。
水利補助結界・第二制御核。
「……現行規格外、ですね」
ミレイアの呟きに、
男は小さく頷いた。
「都市創設以来、使われ続けている核です」
淡々と。
「当時は、今の規格自体が存在しなかった。更新も、置換もされていません」
一拍。
「“動いているから”という理由で」
稼働中。
だが——鈍い。
(……新旧が、噛み合ってない)
刻印の癖が、古すぎる。
現行規格以前——
都市が、形になる前の設計だ。
(……更新されてない)
だから、
“壊れていない”のに、“今に合っていない”
「……挙動が、遅れてますね」
触れる前から、分かる。
「数値上は正常です」
「でも」
ミレイアは、視線を離さない。
「“遅れている”」
正常と異常の、境目。
直せるか。
直すべきか。
ミレイアは、深く息を吸った。
「……まず、確認します」
男は、頷く。
ラザルは、何も言わない。
ただ、背後で静かに立っている。
——断ったからこそ、辿り着いた場所。
都市の裏側で、
次の選別が、始まった。




