手紙
仮家の時間は、思ったより長かった。
朝でもなく、夜でもない。
何かを始めるには遅く、
何かを終えるには早い。
ミレイアは、卓の前に座っていた。
手元には、何もない。
工具箱も閉じたまま、壁際に寄せてある。
(……これから、どうしよう)
問いは浮かぶ。
だが、答えは出ない。
国宝修繕係という肩書きがなくなっただけで、
自分の技術が消えたわけではない。
それは、分かっている。
けれど——
どこで、
誰に、
何を直すのか。
その当たり前の前提が、急に空白になった。
(職人協会に登録はあるけど……)
紹介は、期待できない。
王都で切られた人間だ。
事情を知らない相手ほど、扱いづらい。
ミレイアは、ゆっくりと息を吐いた。
その時だった。
——空気が、わずかに揺れた。
玄関口に設置された簡易結界が、短く反応する。
警戒ではない。
通知だ。
「……?」
立ち上がり、扉に近づく。
結界の内側、
宙に浮くように、小さな封筒が現れていた。
魔法速達便。
都市間を結ぶ、正式な通信手段だ。
個人宛ては、珍しい。
そっと手を伸ばすと、
封筒は抵抗なく、掌に収まった。
上質な紙。
封は簡素だが、
扱いに慣れた手の仕事だと分かる。
宛名を見て、
ミレイアは一瞬、動きを止めた。
——ミレイア様
差出人の欄。
アル=ハディード商会
「……?」
思わず、声が漏れた。
知らない名前ではない。
というより、知らない職人の方が少ない。
多国間交易。
砂漠都市アズ・ナハル。
国家と都市の間を縫う、大商会。
(……なんで、私に)
指先が、わずかに強ばる。
封を切る。
中身は、一枚の便箋だった。
文字は整っている。
威圧も、飾りもない。
――――――――
ミレイア・カレヴァン様
突然のご連絡をお許しください。
アル=ハディード商会代表のラザルと申します。
貴方様のご経歴について、
職人協会を通じて一部お話を伺いました。
差し支えなければ、
一度、直接お話をさせていただけないでしょうか。
下記の日時、
王都第三水路沿いのカフェ《白環亭》にて、
席を用意しております。
ご都合が合わない場合は、
日時・場所の変更も承ります。
本件は、あくまでご相談です。
ご負担に感じられるようでしたら、
どうかご遠慮なく、お断りください。
アル=ハディード商会
代表 ラザル・ノーム
――――――――
読み終えても、
ミレイアはすぐに手紙を畳めなかった。
(……商会、じゃない)
胸の奥で、言葉を選ぶ。
(代表、本人だ)
商会からの連絡ではない。
担当者でも、代理でもない。
名を出している。
(どうして……?)
国宝修繕係だったことは、
知られているのだろう。
だが、それだけだ。
今の自分は、
職を失った職人でしかない。
(有名な商会が……
それも、代表が直々に?)
胸の奥が、ざわつく。
期待ではない。
警戒だ。
断る理由を、探そうとした。
——知らない相手だ。
——商会は、信用も圧もある。
——行けば、何かを求められる。
だが。
(……話を聞くだけ、なら)
その言葉が、
自分の中で一番静かに、確かに残った。
拒む理由より、確かめたい理由の方が、少しだけ勝った。
ミレイアは、手紙を胸元に引き寄せる。
日時の欄を、もう一度見た。
静かな仮家の中で、
時間が、ほんの少しだけ前に進んだ。




