香炉
商会本館の裏手。
昨日と同じ時間。
同じ回廊。
同じ、小さな窓口。
ミレイアは、今度は迷わず声をかけた。
「……すみません」
返事は、やはり少し遅れる。
「はーい……」
眠そうな声。
「昨日の、香の件で……」
言い終わる前に、窓口の向こうが動いた。
「あー、用意してます」
即答。
布包みが、すっと差し出される。
中身は三つ。
どれも小ぶりだが、密度の違いが一目で分かる。
「一番重いやつ、これっす」
指先で示す。
「逆流式なら、たぶんこれ一択っすね」
ミレイアは、そっと布を持ち上げた。
(……重い)
見た目より、ずっしりくる。
「……ありがとうございます」
「いえ」
販売員は、もう次の棚に意識が向いている。
「焚くとき、最初は少なめで。詰まり切ってたやつだと、最初だけ挙動変になるんで」
ミレイアは、思わず顔を上げた。
「……そこまで、分かるんですか」
「まあ」
肩をすくめる。
「そういう問い合わせ、昔ちょいちょい来てたんで」
それだけ言って、手を振った。
「また何かあったらどうぞ」
ミレイアは、小さく頭を下げ、回廊を戻る。
(……本当に、商会って……)
揃っている。
人も、物も。
工房に戻ると、空気はいつも通りだった。
炉の音。
金属音。
刻印の乾いた響き。
ミレイアは、自分の作業台に向かい、
布をかけていた香炉の前で足を止める。
昨日と同じ位置。
同じ角度。
だが、今日は——違う。
香を取り出し、少量だけ匙で量る。
(……少なめ)
購買の言葉を思い出し、慎重に置いた。
そっと、香を置く。
しばらく——
何も起きない。
「……」
失敗ではない。
だが、分かりづらい。
ミレイアは、香炉をじっと見つめたまま、動かない。
その時だった。
器の中から、芳香と細い煙が立ち上る。
ただの煙じゃない。
林を模した造形に沿って、
煙が、形を持つ。
小さな兎。
鹿。
鳥。
煙の動物たちが、
器の中の林を駆け回るように巡り始めた。
音はない。
だが、確かに“生きている”。
ミレイアは、思わず息を呑んだ。
「……綺麗……」
回路は、正しく動いている。
排出口は、完全に通っている。
——成功だ。
一拍遅れて、胸の奥に実感が落ちてくる。
(……直った)
ミレイアは、静かに通信機を取った。
「……ミレイア・カレヴァンです」
呼び出し音は、短い。
『どうした?』
ラザルの声。
「魔道具の修理、終わりました……」
言葉を選ぶ。
「起動しました。ちゃんと、動いています」
『……今、工房?』
「はい」
次の瞬間。
空気が、揺れた。
何もなかった位置に、
ふっと影が落ちる。
転移。
次の瞬間には、
ラザルが立っていた。
「……どれ?」
迷いのない視線。
ミレイアは、香炉を示す。
「こちらです」
ラザルは、一歩近づき——
そして、足を止めた。
煙の兎が、林を駆ける。
鹿が、煙を揺らす。
鳥が、ふわりと舞う。
「……ああ」
思わず、声が漏れる。
「これは、すごいね」
商人の声じゃない。
評価でも、値踏みでもない。
純粋な、感嘆だった。
「逆流香炉だ」
静かに続ける。
「煙を外に見せるんじゃない。戻して、器の中に世界を作る」
煙の動物たちが、静かに巡る。
派手さはない。
だが、見ていると目を離せなくなる。
「これはね」
ラザルが、楽しそうに言う。
「好きな人は、とことん好きだ」
視線は、香炉に向いたままだ。
ミレイアは、香炉を見つめ直す。
(……直して、よかった)
その感覚が、
胸の奥で、静かに定着していった。
この時は、まだ知らない。
この小さな香炉が、
次に動かすものの大きさを。
ただ、今は——
煙の兎が、林を駆けていた。




