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とある豪商の視点

アズ・ナハルの夜は、静かだった。


石造りの建物の最上階。

一面は、最初から閉じられることを想定していない。

壁と外界の境目は曖昧で、夜風と都市の灯が、そのまま室内に流れ込んでくる。


水路の反射光が、淡く天井を照らしていた。


ラザルは、低い位置に置かれた大きなクッションに身を預けている。

人ひとりが沈み込めるほどの柔らかさだ。


膝の上には書類。

紙束は厚いが、内容は限られている。


交易報告。

融資先の整理。

そして――


「……」


一枚の報告書を、指先で押さえた。


修復部門 稼働状況について


壊れた魔道具を修復し、価値を回復させて売却する部門。

だが近年、今の職人では手を出せない品が増えていた。


(無理に回せば、事故になる)


(扱えない以上、今の形は見直すしかない)


判断としては、妥当だった。


指先で頁をめくる。


(……問題なし)


確認するべきことは、もう多くない。


――本来なら。


その時、足音がした。


回廊を渡る、軽い靴音。

気配を殺すつもりのない歩き方だ。


「失礼します」


書類係の男だった。

年齢は若いが、動きは手慣れている。


「報告を一つ」


ラザルは、視線を上げない。


「うん」


「隣国セレスタイン王国で、戴冠機関の管理部門が解体されました」


紙をめくる指が、止まった。


「……へえ」


声は、変わらない。


「専任の修繕係が、本日付で解雇されたそうです」


夜風が、部屋を抜けた。


ラザルは、ゆっくりと書類を置く。


「戴冠機関、っていうと」


「《戴冠機関・アウレア・レガリア》です」


その名を聞いた瞬間、

思考が、静かに切り替わった。


(国宝級か)


セレスタイン王国。

そして――先王。


(賢王で知られた男だ)


「状態は?」


「表向きは、安定稼働中とのことです」


ラザルは、ほんの一瞬だけ視線を遠くにやった。


アズ・ナハルの灯が、連なっている。

水と結界に守られた都市。


「……壊れていない、という判断かな」


「はい」


ラザルは、顎に手を当てた。


考え込む仕草ではない。

確認だ。


――だが。


その口元が、わずかに歪む。


(あの賢王が、わざわざ専任で置いた修繕係)


それはつまり、


(壊れないように、触ってた人間がいた)


「……面白いな」


声に出たのは、独り言に近かった。


書類係が、わずかに視線を上げる。


ラザルは、気にした様子もなく続けた。


(腕が悪いはずがない)


(それどころか――

 普通の職人じゃ、判断が追いつかない)


「名前は」


「ミレイア・——」


最後まで聞く前に、ラザルは小さく息を吐いた。


(十分だ)


判断は、もう終わっている。

 興味が、先に立った。


「連絡手段は」


書類係は、一拍置いて答える。


「職人協会に登録があります。資格管理と、連絡窓口はそちら経由になります」


ラザルは、クッションから身体を起こした。


動きに、迷いはない。


「協会に照会を」


「条件は」


「こっちから提示する」


淡々とした声だった。


だが、その足取りは、ほんの少しだけ軽い。


「あの賢王が見出した人材だ」


立ち上がり、夜風に向かって歩き出す。


「市場に流れる前に、押さえる」


水路の光が、背中を照らしていた。


(——どんな“触り方”をするのか)


(……見てみたい)


夜のアズ・ナハルは、静かだ。


だが、

その静けさの中で、一つの取引が、好奇心という名前の燃料を積んだまま、正規の手順で動き出していた。


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