殺到する予約
工房の朝は、いつも通りだった。
魔道炉の低い唸り。
金属が擦れる音。
刻印を打つ、乾いた響き。
変わらない。
だからこそ、変化は小さなところに出る。
書類束を抱えたラザルが、工房の入口で足を止めた。
一度、量を確かめるように目を落とし、
それから、何でもないことのように言う。
「学会の予約、半年先まで埋まったよ」
ミレイアは、作業台の前で刻印具を置いた。
一拍。
ほんのわずかな間。
「……そう、ですか」
それから、少し考える。
「すごいですね」
感情の起伏は小さい。
驚きも、喜びも、抑えめだ。
ラザルは、その反応を見てから頷いた。
「うん。すごいよ」
強調するように。
「半年分、“直してほしい”が溜まったってことだからね」
ミレイアは、視線を棚の方へ向けた。
倉庫。
死蔵品。
用途不明。
修理不可。
「……そんなに、待ってるものがあるんですね」
ぽつりと。
「あるよ」
即答だった。
「思ってるより、ずっと」
ラザルは、書類を作業台の端に置く。
「壊れたままじゃなくて、“分からないまま”置かれてる道具がね。学会にも、貴族にも、遺跡にも」
少しだけ、声音が落ち着く。
「君が直した通信機で、みんな思い出したんだ」
ミレイアは、顔を上げる。
「……思い出した?」
「うん」
ラザルは、軽く笑う。
「壊れたら終わり、じゃないってことを」
ミレイアは、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……直せるものは、直します」
いつもの言葉。
だが、今は少し重みがある。
「ただ、全部は無理です」
「分かってる」
ラザルは、あっさり言う。
「だから、半年先で止まってる」
その言い方に、
ミレイアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……待たせてしまいますね」
「待つ価値があるなら、待つさ」
さらりと。
「直されるのを、何十年も待ってた道具だってあるんだから」
ミレイアは、もう一度、棚を見る。
(……そう、か)
待っているのは、人だけじゃない。
置かれたまま、
触られず、
動かないままの——
道具。
ミレイアは、静かに頷いた。
「……では」
工具箱に、手を伸ばす。
「今日も、一つずつですね」
ラザルは、その背中を見て言った。
「うん。一つずつでいい」
それが一番、
確実に、前に進むやり方だと知っている声だった。
倉庫の奥。
死蔵品用の棚は、いつも静かだ。
危険もない。
だが、価値も測られていない。
ミレイアは、布に包まれた一つの置物の前で足を止めた。
小ぶりな香炉。
器は林を模した造形で、低い丘と木立が彫り込まれている。
装飾は細かいが、派手ではない。
札には、簡素に書かれていた。
《観賞用魔道具》
《起動不可》
《修理不可》
「……修理不可、ですか」
誰に向けるでもなく、呟く。
布を外すと、内部の魔力反応は——ほとんどない。
だが、壊れた感じもしなかった。
(……止まってるだけ)
作業区画へ運ぶ。
外套を脱ぎ、マスクを引き上げる。
指輪を外し、手袋を嵌める。
その動作は、もう迷わない。
だが、息は一つ、深く整えた。
(……落ち着いて)
外装を外した瞬間、ミレイアは眉を寄せた。
(……古い)
回路が、あまりにも古い。
しかも、無駄に複雑だ。
観賞用なのに、多層。
制御系が、針の先のように細い排出口へ集約されている。
(……これ、詰まる)
壊れたわけじゃない。
経年で、香の微粒子が蓄積し、
排出口を塞いでいる。
(……設計者、やりすぎです)
思わず、内心でため息をつく。
刻印ナイフは使わない。
削らない。
書き換えない。
必要なのは——
通すこと。
ミレイアは、補助炉の出力を極限まで絞り、
ごく微量の魔力を流す。
一筋。
さらに、もう一筋。
詰まりを押し流すのではない。
“ほどく”。
時間が、ゆっくり流れる。
三十分。
一時間。
排出口が、わずかに息をするように反応した。
(……通った)
外装を戻し、最低限の起動を確認する。
——何も起きない。
香炉は、ただそこにあるだけだ。
「……?」
一瞬だけ、不安がよぎる。
ミレイアは、香炉をじっと見下ろした。
回路は、確かに通っている。
沈殿は解け、流路も戻った。
——だが。
「……分からない」
ぽつりと、声が落ちる。
煙の流れを制御するための装置。
だが、肝心の“煙”がない。
(……これ、普通の香じゃ、ダメですよね)
逆流構造。
しかも、針の先ほどの排出口。
軽い煙では、通らない。
重さと粘度が要る。
ミレイアは、ノートに一行書き足した。
《専用香要》
《高密度・低拡散》
書いてから、少しだけ眉を寄せる。
(……街に、買いに行かないと)
工房では扱っていない。
香料屋か、儀式具店。
そこまで考えて——
「あ」
小さく声が出た。
(……ここ、商会でした)
アル=ハディード商会。
香料も、儀式用消耗品も、扱っていないはずがない。
ミレイアは、工具を片付けながら立ち上がる。
(……でも、どこで……)
一瞬だけ迷ってから、
工房の掲示板に貼られた案内を思い出した。
——従業員向け購買窓口。
——消耗品・試験用資材、割引有。
「……あ、そこなら……」
独り言のように呟いて、
外套を羽織る。
香炉は、布をかけたまま作業台に残した。
(……動いてる、はず)
確信はある。
だが、確認は——これからだ。
ミレイアは、工房を出る。
目的地は、
商会本館の裏手。
従業員しか使わない、
小さな購買窓口だった。
——そこで、
“重い煙の香”が手に入るかどうかは。
まだ、分からない。
だが。
(……次で、はっきりする)
そう思った瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。




