学者の家
王都郊外。
旧大学区画の一角に、その研究棟はあった。
外壁はくすみ、看板も半ば風化している。
だが、結界だけは今も現役だった。
入った瞬間、空気が変わる。
紙の匂い。
乾いたインク。
古い魔道具特有の、落ち着いた魔力残滓。
床と作業机だけが、異様なほど整っている。
「生きてた?」
ラザルが、遠慮なく声をかけた。
奥から、低い声。
「生きてるわ馬鹿者」
「また片付けてない」
「お前が来るたび散らかるんだ」
姿を現したのは、年嵩の学者だった。
白髪は跳ね、背は曲がっているが、目だけは鋭い。
ラザルは肩をすくめ、後ろを振り返る。
「紹介するね」
軽い口調。
「この怖いお爺ちゃんが、エル=ハルド・ヴァレンシュタイン先生。見た目はこんなボロ屋に籠もってる変人だけど、学会じゃ偉い人」
「余計なことを言うな」
即座に叱責。
「怖い、も要らん」
「えー、だって怖いじゃん」
言いながらも、ラザルはどこか楽しそうだ。
エル=ハルドの視線が、ラザルの後ろへ向いた。
ミレイアだ。
一瞬で、見る目が変わる。
年齢でも服装でもない。
手の位置。
装置の持ち方。
「……君」
ミレイアは、軽く頭を下げた。
「ミレイア・カレヴァンと申します」
それ以上、何も言わない。
エル=ハルドは、短く頷いた。
「出せ」
指示は、それだけだった。
布が、解かれる。
半球状の金属装置。
光を吸うような外装。
古い刻印。
エル=ハルドは、ちらりと見てため息をついた。
「またお前は、他人を巻き込んでガラクタを…」
だが。
刻印の一つに、視線が止まる。
次の瞬間、動きが完全に止まった。
「……」
無駄口が消える。
呼吸が、浅くなる。
「誰が、直した」
声が低い。
ラザルが、軽く顎で示す。
「彼女」
エル=ハルドは、ミレイアを見た。
肩書きも、年齢も、聞かない。
「……触っていいか」
「どうぞ」
ミレイアは、即答した。
エル=ハルドの手が、わずかに震える。
内部を覗き込み、息を呑んだ。
「あり得ん……」
独り言のように。
「構造が、違う。記録と、合わん」
ミレイアが、静かに補足する。
「二方向循環です。送って、戻しています」
エル=ハルドの指が止まる。
「距離制限は?」
「魔力濃度依存だと思います」
一拍。
エル=ハルドが、顔を上げた。
「……これは、通信機だ」
断言だった。
ラザルが、間の抜けた声を出す。
「それ、凄いの?」
「凄いなんてもんじゃない」
エル=ハルドは、即座に切り捨てる。
「通信機が存在しないとされていた時代のものだ。当時は、使い捨ての儀式か、予知で代用していた」
装置を、睨むように見る。
「文明観が、ひっくり返る」
ラザルは、少し考えてから言った。
「売ったら?」
「売るな馬鹿者」
即答。
「歴史だぞ。値段の話をするな」
ラザルは、不満そうに唇を尖らせる。
「えー」
エル=ハルドは、再びミレイアを見る。
「……君が、直したのか」
「はい」
「壊さなかったな」
「壊したら、分からなくなるので」
一瞬。
エル=ハルドの表情が、わずかに緩んだ。
「……そうだ」
完全に、同好の士を見る目だった。
「これは論文になる」
エル=ハルドが言う。
「いや……十本分だ」
ラザルが、軽く笑う。
「忙しくなるね」
「違う」
エル=ハルドは、首を振る。
「この娘が、忙しくなる」
言葉が、重い。
「考古学会が放っておかん。予約が殺到する」
ミレイアは、少しだけ目を瞬いた。
事の重さが、まだ実感に追いついていない。
帰り際。
ラザルが、歩きながら言う。
「どうする?」
仕事の話だと、分かる問いだった。
ミレイアは、すぐには答えなかった。
布に包まれた装置を、胸に抱え直す。
——壊れていたものを、動く状態に戻した。
それだけは、確かだ。




